43. がんばりましたね
私はお姉さまの部屋の前に立っていた。
私がお姉さまのためにしてあげられることなんてなにもなくて、なにをしゃべったらいいかもわからないし、こうして会いに来たって悲しい顔をしてしまって、かえって気を使わせるだけなんじゃないのかな。
そんなことを考えて、なかなか身体が動かなかった。
何度かノックしようと手を上げてみたけれど、やっぱり叩けなくて、どうしようどうしようと扉の前をウロウロとしていると、ふいに扉が開いた。
「クロエさん」
中から出てきたのは、手に桶を持ったクロエさんだった。
クロエさんは廊下に出て扉を閉めると、私のほうに向き直った。
「ずいぶんお悩みのご様子ですが、アマーリアさまは今はお休みになっております」
「あっ、そうですか……え?」
ずいぶん悩んでいたことを読み取られてしまっている。
「足音が聞こえましたので」
扉の前でウロウロしていたのを聞かれていたらしい。
「アマーリアさまも起きたときにお一人だと不安でしょう。こちらに寝具をご用意いたしましょうか」
いろいろと話が早い。さすが、伝説の人。
それにおかげで踏ん切りがついた。
「えっと、じゃあお願いします」
「ベッドに共寝でよろしいですか」
「はい」
「かしこまりました。ではご用意いたします。それまで、どうぞ中でお過ごしください」
「あっ、はい」
言われて扉に手を掛けたところで、振り向く。
歩き出したクロエさんの背中に声を掛けた。
「クロエさん」
「なんでございましょう」
言いながら、彼女はこちらに振り向いた。すました顔をしていて、その感情は読み取れない。
「あの、ありがとうございます」
「それが何に対しての礼なのかはわかりかねますが、それには及びません。私どもは主人のために動くだけですから」
この場合、クロエさんの主人はもちろんレオさまだろう。
この屋敷の主人は私だと宣言したけれど、クロエさんは、レオさまが私に従うと言ったことに従っているのだ。
「でも、ありがとうございます。姉の世話をしてくださって」
手に持った桶はおそらく、腫れあがった頬を冷やしたりとか、傷の洗浄とか、そういったもののために使った水が入っているのだろう。
するとクロエさんは、はあ、と息を吐いてから、身体ごとこちらに向いた。
「この際、申し上げておきますが、ご心配には及びません。アマーリアさまは、いけ好かない女性ではありますが」
「いけ好かない」
なんとまあ。はっきり言いますね。
「そりゃあレオカディオ殿下との婚約予定を変更してまで、違う方に嫁ごうとしているわけですから。ウィルフレド殿下を悪く言うつもりはありませんが、レオカディオ殿下以上では決してありえないと、問い詰めたくもなっています」
あっ、はい。
「おまけに美貌に恵まれて、人生楽勝なんだろうとも思ってましたし」
それレオさま関係ない。
それからクロエさんは目を伏せて続けた。
「けれど、あの身体中の傷を見ると、同じ女性として心苦しくはあります。ちゃんとお世話はいたしますので、ご心配なく」
「それは心配していません」
だってクロエさんだもの。伝説の人らしいし。世話をすると言ったらするんだろう。
「そうですか」
「レオカディオ殿下が、クロエさんは信頼できるから任せていいと仰ったので」
私がそう言うと、クロエさんは何度か目を瞬かせてから、ふっと笑った。
「それは光栄です。その信頼には応えねばなりません」
クロエさんはそう言うと、一礼してから立ち去っていった。
◇
私はベッドの横に置いてあった椅子に腰掛けて、眠るお姉さまの顔を見つめた。
言った通り、クロエさんはちゃんと世話してくれたのだろう。清潔な寝衣に着替えて、清拭もしてくれて。それでもやっぱり頬の腫れと痣は痛々しいけれど。
プラチナブロンドの髪がベッドに広がっている。美しい艶を持つ髪はところどころ不自然に跳ねてしまっていた。
髪を引っ張られてちぎれたのだ。根元から抜けた髪もあるだろう。
どうしてこんな酷いことができたのか、理解に苦しむ。
「う……」
ふいにお姉さまが顔を歪め、唸るような声を出す。
どこか痛いのかな、顔もだけど捻挫もしていると言っていたから、冷やしたほうがいいのかもしれない。
私は脇にあった桶に手ぬぐいを浸そうとそちらに手を伸ばした。
そのとき、お姉さまがガバッと突然、跳ね起きる。
そしてキョロキョロと辺りを見渡した。
「お姉さま」
呼び掛けるとビクッと身体を震わせて、それからゆっくりとこちらを見て、そして少ししてからホッと息を吐き出す。
「プリシラ」
お姉さまは開いた手のひらで、胸の辺りを撫でた。
嫌な夢を見てうなされたのだ、とわかった。
お姉さまはどれだけ怖かっただろう。
ウィルフレド殿下以外誰も知らないところで、誰を信じていいのかわからないまま、蹂躙されようとしたのだ。
身体中にあるという傷は、お姉さまの抵抗の跡だ。
くっきり痣が残るほどに手首を握られて。髪をちぎれるほどに引っ張られて。
私は、レオさまの部屋で、呼んでも誰も来なかったことを思い出す。
もし相手がレオさまじゃなかったら。もしキルシーの王太子のような人だったら。
助けてと叫んでも、そこにいるのに誰も来ない、その絶望を。
私は耐えることができたのかな。
「お姉さま、がんばりましたね」
私がそう言うと、お姉さまは私の顔を見て、何度か目を瞬かせた。それから小さく笑う。
「ええ、そうなの。がんばったの」
「偉いです」
「もう駄目かとも思ったのだけれど」
「良かったです」
「殴ったりもしたのよ」
「当然です」
「蹴り上げちゃった」
「潰れているといいですね」
「まあ、プリシラったら」
そう言ってお姉さまは泣き笑いの表情で、ふふふ、と笑う。
忘れることはできないのかもしれない。けれどこんな風に少しずつ、元気になれたらいいな、と思った。




