42. 涙
「犯罪者……」
確かにウィルフレド殿下は、その場にいた者たちを斬りつけた。もしかしたら殺してしまったかもしれない。
けれどそうしなければ、お姉さまは助けられなかった。たった一人で複数人を相手にするのに、加減なんてできるわけがない。
そもそも、王太子がお姉さまに無体なことをしなければよかった。衛兵や侍女たちが裏切らなければよかった話なのに、犯罪者、だなんて。
「あることないこと付け加えられて、全然違う話になっているだろうな」
そう言うと、はあ、と息を吐きながらレオさまはソファに身体を埋めた。
「アマーリア嬢が挨拶に来た王太子を誘惑して、それを見てしまったウィルが嫉妬にかられて王太子に斬りかかった。止めようとした衛兵も侍女も、逆上したウィルに斬られた、というところか。ウィルは王位継承権を放棄しているから王太子位簒奪までは言われていないかもしれないが、それもどうかな」
「ああ」
ウィルフレド殿下もそう予想しているのかうなずいた。レオさまは続ける。
「王太子の怪我の状態にもよる。軽傷ならば、痛い腹を探られないように内々に動くかもしれない。追手が王太子のものだったか、王城のものだったか、わかればある程度、状況が絞れるが」
「すまない」
「まあそうだろうな」
期待はしていなかったのか、レオさまはあっさりとそう答えた。
ウィルフレド殿下はソファに座って身を乗り出すようにしてレオさまに言う。
「いずれにせよ、長居はしない。ただ、一月……いや半月、アマーリアをこちらで保護してもらえないだろうか」
「半月? ……まあいい、ウィルはどうするんだ」
「私は国へ帰る」
レオさまはその返事に顔をしかめた。
「殺されるかもしれないぞ」
「勝算がまったくないわけでもないんだ」
口元に弧を描いてそう言うけれど、無理に言っているように聞こえた。
いったいなんの話をしているんだろう。殺される? 目の前のこの人が?
平和の中で守られて生きてきた私には、彼らの言うことを上手く想像することができない。
「もうすでに迷惑を掛けているのにこれ以上言うのは心苦しくはあるが、お願いする。アマーリアだけでもセイラスに置いてほしい。私が帰れば追及も厳しくはないだろう。それで、使っていない別宅があると聞いたのだが」
「……使っているんだ。コルテス子爵夫妻は今、そちらで生活している」
「そ、そうですよ。お父さまのところがあるじゃないですか。お父さまのところに匿ってもらいましょうよ」
私は勢い込んで言う。
お父さまなら、お姉さまを守ってくれる。
「だめだ!」
けれどレオさまの鋭い声が飛んできた。
「別宅に行ったことが知られたら、なにかあったとき、セイラス王家はコルテス子爵家をまるごと切り捨てるぞ」
「き……切り捨てるって」
「子爵が勝手に匿った。王家には関係ない。そういう話になる」
レオさまの翠玉色の瞳が、私を見ている。
それから静寂が応接間を支配した。
切り捨てる。王家が。私たちを。
考えがまとまらないうちに、ノックの音が響いた。
「入れ」
「失礼いたします」
入ってきたのは予想通りクロエさんだった。
彼女は一礼すると、淡々としゃべり始める。
「ウィルフレド殿下、アマーリアさまの治療はひとまず終了いたしました。大きな怪我はないようで幸いです」
「あ、ああ、ありがとう」
ウィルフレド殿下はその報告に、ほっと安堵の息を吐く。
「食事の用意をいたします。どうぞアマーリアさまとご一緒に」
「あ、いや、私は」
私たちと話をしている最中だと配慮したのだろう。けれどクロエさんは続けた。
「ほとんど飲まず食わずの上、睡眠も十分ではないと聞きました。いずれにせよ、今は休まれることをお勧めします。まずは食事を」
その言葉にレオさまは続ける。
「そんな状態では頭も回らない。落ち着いてから、また考えよう」
「……すまない」
そう言ってウィルフレド殿下は立ち上がり、クロエさんのほうにふらふらと歩いて行く。
今までお姉さまばかりに注目していたけれど、彼もかなり薄汚れているように見えた。衣装はところどころ破れているし、赤黒いシミもあちこちにある。
あれは、誰の血なんだろう。そんなことをぼんやりと思う。
パタンと扉が閉まる。応接間にレオさまと二人きりになって、けれど胸の中には薄暗い感情しかない。
「……悪いのは、キルシーの王太子なのに……」
ぽつりと口からそんな言葉が零れ出る。
「なのにどうして? どうして逃げ回ったり隠れたりしないといけないの!」
私はバッとレオさまのほうに顔を向けると、叫ぶように言った。
「抗議しましょうよ、抗議!」
「セイラスが、キルシーに?」
「そうですよ、お姉さまは被害者です! そしてまだセイラス国民です!」
私の叫びに、レオさまは首を横に振った。
「無駄だな、しらを切られるだけだ」
その冷静な声に反して、私の感情はカッと燃え上がる。
「そんなの!」
「逆に抗議されて、戦にでもなったらどうする」
けれどレオさまは静かな声のまま、そう返してきた。
膨れ上がった気持ちが、あっという間に萎んでいく。
セイラス王国とキルシー王国の親善に尽力するはずが、お姉さまが火種になる。
その考えに、身体が震えた。
「だって……」
そんなの、理不尽じゃないか。そんなのは、正しくない。
「だって、あんなに酷いことをされたのに、泣き寝入りしろっていうんですか……」
目に涙が盛り上がってきて、私は慌ててうつむいた。
「プリシラ」
「……レオさまなんか、嫌い。お姉さまを保護することに躊躇したもの」
私がクロエさんと言い合ったとき、レオさまはしばらく口を挟まずになりゆきを見守っていた。お姉さまをこの屋敷に置くことを迷ったのだ。
仕方ない。レオさまは王子だ。なにもかも棄てて、後先考えずにお姉さまのことだけを守るだなんて、できるはずはない。
「お姉さまを匿ってくれないもの」
私が言っていることは、駄々っ子のように聞き分けのない、八つ当たりだ。
私だって王子妃になるんだから、情に流されてはいけないんだ。私もレオさまと同じように、国全体のための選択をしなければならない。
「なにかあったら、切り捨てるだなんて言うんだもの」
間違っているのは私だ。
わかっている。わかっているのに。
「嫌い」
「すまない」
なのに、レオさまは謝った。私は俯いたまま、ぶんぶんと首を横に振る。
その拍子に、涙がぽつぽつと膝の上に落ちた。
すると隣でレオさまが動いた気配がしたと思ったら、ふいに頭に腕が回される感触がした。
そのまま、抱き寄せられる。温かい。
「私はまだ諦めていない。だから、泣くな」
先ほどまでの冷静な声とは違い、どこか戸惑うような感情が含まれている声が、耳元でする。
私はレオさまの背中に腕を回し、その胸に顔を押し付けた。みるみるうちにレオさまの服が濡れて申し訳なさも湧いたけれど、だからといって離れたくはなくて、しがみつくように、背中に回した手をぎゅっと握る。
声を上げないように堪えても喉から漏れ出てしまう嗚咽を隠すように、レオさまは私を抱く腕に力を込めてくる。
もしこの先、コルテス子爵家が切り捨てられることになったら。
私はこの人を完全に失って、二度と会うこともないんだろうな、とそんなことを考えた。
その喪失感は、また私の涙をあふれさせた。




