41. 選択
私の声に、レオさまはハッとしたように顔を上げる。そして少し考え込んだあと、うなずいた。
「そうだな。これ以上は酷だろう。あとはウィルだけでいい。治療もしなければ」
そして壁際にいたクロエさんに顔を向けた。
「クロエ、医師を」
けれどクロエさんはそこに控えて動かないまま、口を開く。
「お勧めしません」
冷たい声だった。
「そういう話ならば、おそらくウィルフレド殿下はお尋ね者になっています。もしあちらの王太子殿下が亡くなっていたらどうなさいます。セイラスに入国したこともいずれ知られるでしょう。二人ともの引き渡しを要求されることは想像に難くありません。そのとき二人を保護したレオカディオ殿下になんの影響もないとでも?」
「クロエ」
「なにもしないほうがいいのではないですか」
その冷静な声に、頭にカッと血が上る。いくらレオさま第一主義だって、それはあんまりなんじゃないか。
こんなに傷ついているお姉さまを放っておくなんて、私にはできない。
なのに、クロエさんは見捨てろと言っている。
そうだ。私たちが帰ってくる前にも医師に診せることはできたのではないか。今、この屋敷にはレオさまの主治医がいる。
お姉さまを見る限り、なんの治療も受けていない。クロエさんは、この部屋に二人を押し込めて、レオさまの指示を待ったのだ。
私はゆっくりとお姉さまを抱いていた腕を解くと、立ち上がった。
そしてクロエさんのほうに歩み寄り、その正面に立つとその冷めた目を見据える。
「父がここにいない今、私がこの屋敷の主人です。この屋敷は王子殿下にお貸ししているだけです。たとえ王家の方であっても、この屋敷内では私の指示に従ってもらいます。まずは、姉のために、適切な治療を」
しかし怯むことなく、クロエさんは返してくる。
「屋敷がどうこういう話ではありません。これは、国と国との問題です」
「従ってもらいます」
睨み合いが続く。
しばらくしてから、レオさまが静かな声で言った。
「クロエ。プリシラに従おう。怪我人を追い出すほど、セイラス王家は非情ではない」
「……殿下がそう仰るのであれば」
クロエさんはレオさまの言葉にはあっさりとうなずいた。私はほっと息を吐き出す。
医師を呼んでくるとクロエさんは扉に向かったが、開ける前にこちらに振り向いた。
「医師は男性ですが、大丈夫ですか」
「あ」
「それから、ここでいいのですか。男性の目がない個室をお勧めいたします」
「あっ、ああ、そうですね」
「その布の中の衣装は、見られたものではなくなっていると推測いたします。プリシラさまの衣装をお貸しすることに許可を」
「あっ、はい」
偉そうなことを言った割に、私はクロエさんに言われるまで、そういった具体的なことが頭に浮かんでいなかった。
主人だなんて言ったのに、やっぱり私は考えなしだ。
あわあわとしながらも、なんとか言う。
「と、とにかく、お姉さまが使っていた部屋に連れていきましょう」
「どこですか」
「三階の……」
「ああ、わかりました」
クロエさんがうなずく。
「おかしな部屋だと思っていたんです。最初は、警備上は都合がいいかとレオカディオ殿下の部屋にもしようと思っておりました」
だからわかる、とクロエさんは言った。
「ではお連れしましょう。立てますか」
お姉さまは一瞬、腰を浮かせようとしたけれど、ウィルフレド殿下がそれを制する。
「足首を捻挫しているんだ。折れてはいないようだが、私が運ぶ」
そう言って、布にくるまったままのお姉さまを、そのまま横抱きに抱き上げた。お姉さまはますます小さく丸まった。子どものようだ、と思う。
クロエさんがお姉さまを抱えたウィルフレド殿下のために、扉を開けて脇に控える。
横を通り過ぎるとき、クロエさんはぼそぼそとウィルフレド殿下に言った。
「念のため確認いたしますが」
「なんだろうか」
「その布はどちらで?」
お姉さまをくるんでいる白い布を指さして、そう訊いている。
「ああこれは、追手が来る前に弟のところに寄ったんだ。どこぞでいろんなものを盗みながらやってきたわけではないから、そこは安心してくれ」
苦笑しながら応えたその言葉に、クロエさんは一つうなずく。
「それはようございました」
それから二人が部屋を出るのを見届けると自身も部屋の外に出て、半分まで扉を閉めたところでこちらに視線を向けてきた。
「必要があればお呼びしますので、こちらでお待ちください」
クロエさんは私にそう声を掛けると、一礼してから扉を閉めた。
応接間には、レオさまと私が残されて、沈黙が落ちる。
少ししてレオさまが、立ったままの私を見上げて言った。
「おかしな部屋とは?」
「お姉さまの部屋は、ちょっとわかりづらいんです。三階ですし、窓も小さい上に、はめ殺しで」
「ずいぶん厳重だな」
「お姉さまは……狙われやすいから」
だからお父さまがお姉さまの部屋を改造させた。窓の外に高い木があって目隠しにいいかと思っていたけれど、登られたほうがまずいと切ってしまったりもした。
キルシーはひどい国だって思ったけれど、そうなのかな、と私は思う。
今までお姉さまや私がこのセイラス王国で安心して生きてこれたのは、お父さまが大事に大事にこんな風に守ってきたからなのじゃないのかな。
だってお姉さまの部屋の場所を探ってきたクソ野郎だって私は知っている。
お姉さまがいなくなって、暇を申し出てきた使用人だっていた。
どこにだって優しい顔をした悪魔は潜んでいるのだ。
◇
しばらくして、ウィルフレド殿下は一人で応接間に帰ってきた。
「クロエは?」
「医師を呼んだんだ。彼女が言うには、やはり男性の医師も怖いようだから、控えていると。私もついていようかと思ったんだが、むしろ私には見せたくないのではと言うので、私だけこちらに」
「そうか。クロエは信頼できるから任せておいていい」
「ああ」
レオさまは一人掛けの椅子から立ち上がり、ソファのほうに移動する。私もそのあとをついて、隣に座った。
ウィルフレド殿下は元いた場所に戻ると、ドカリと座り込み、そして両手で顔を覆う。
「私も……信頼していたんだ」
王太子に協力した者たちを。
「特に侍女は信頼できる者たちだったんだが……なにか弱みを握られでもしたか、それとも単純に王太子に逆らえなかったか」
違う。そう私は思う。
もちろん今ウィルフレド殿下が言ったことも理由にあるのかもしれない。
でもたぶん、それだけじゃない。
お姉さまが選ばれたから。その人たちは選ばれなかったから。
だから今まで味方だった人たちが、一気に敵に変わったんだ。
お姉さまは大事な主人を惑わせる、他国からやってきたぽっと出の、大した身分も持たない美しいだけの女にしか見えなかったのだ。
ずっと仕えられてきたウィルフレド殿下は、逆に思いつきもしないのだろう。
「こうなると、国内は安心できなくてね」
ため息交じりに彼は言った。
「だから、検問所を通らず国境を越えた。足取りをつかまれたくなかった。途中、第三王子のところにだけは立ち寄ったけれどね。なにも持たずに何日も馬は走らせられないから。あいつは王太子とは反目しているから、多少の協力はしてくれる」
「そこで保護してもらうことはできなかったのか」
「追手が来てね。これ以上は無理だと言われて。アマーリアが酷い有様だったから着替えさせたかったんだが、時間がなくて。たまたま廊下を歩いていた侍女が持っていたシーツを何枚か拝借して、取るものも取りあえず、馬に乗って駆け出した」
「そうか」
「いくらか金子は持っていたから、盗みながら移動はしていないぞ」
「もしそうしていたら、足取りを追われていたかもな」
苦笑しながら言うレオさまの言葉に、ウィルフレド殿下は薄く笑った。
それから目を伏せて、小さな声で続ける。
「ここしか浮かばなかったんだ。完全に安全なところが。迷惑を掛けて申し訳ないとは思っている」
そう言ってうなだれるように頭を下げた。
単騎で。お姉さまを抱えて。辺りを警戒しながら山の中を走るのは、どれだけ心細かっただろう。
この屋敷の灯りを見たときに、どれだけ安心しただろう。
「そんなにすぐに追手が来たのか」
「ああ」
「では王太子は生きていると見たほうがいいな」
レオさまは口元に手を当てて、目を伏せてしばらく考え込む。
そして顔を上げたときに、言った。
「だが、表立って保護することはできない」
「ど、どうしてですか」
私は慌ててレオさまに向かって言う。
クロエさんはともかく、レオさまならばと薄く期待していた。
お姉さまは被害者だ。保護は当然ではないのか。セイラス王家は非情ではないと、さきほど言ったばかりではないか。
「これは、ものの見事な、『犯罪者の国外逃亡』だ」
レオさまはそう言って、じっと私を見つめてきた。