40. 泣いてはいけない
そのとき私は、夜会が終わったあと、レオさまの部屋で聞いたことを思い出していた。
『確かにキルシー王国は欲しいものは奪えという国だが』
欲しくなったのだ。キルシーの王太子は、絶世の美女であるお姉さまが、欲しくなったのだ。
私はお姉さまの手を握って、寄り添うようにしてソファに座っていた。
お姉さまは、ウィルフレド殿下以外の男性が怖いのか、レオさまが身じろぎしただけでもビクリと反応する。
クロエさんはそれにわずかに眉をひそめるが、黙ったまま控えていた。
「だ、大丈夫。大丈夫です……。申し訳ありません」
震える声で、お姉さまはそう言う。薄く笑ってもみせた。
どうしてこんなに無理をしないといけないんだろう。どうして謝らなければならないんだろう。
もうこんなに、傷ついているのに。
レオさまはお姉さまに配慮したのだろう、少し離れたところで一人掛けの椅子に腰掛けた。
「ウィル。国境検問所は通ったのか?」
「通っていない」
「だろうな」
ウィルフレド殿下の即答を聞くと、額に手を当て、はあ、とため息をついている。
「通れば先触れが来るはずだ。アマーリア嬢を連れたウィルが先に到着するとは思えない。どこを通って来たんだ」
「山越えをした」
「なぜ」
ウィルフレド殿下はお姉さまのほうに振り返った。目が、『しゃべってもいいか』と訊いていて、お姉さまはそれにうなずいた。
もう一度、レオさまのほうを向くと、ウィルフレド殿下は口を開いた。
「アマーリアと私は陛下に謁見をして、正式に結婚の許可をいただいた。そこに王太子も同席していたからな、そのときに見初めたと思う」
「それで」
「私たちは予定通り、空いていた離宮に住むことになった。もちろんすべてを整えていた。私は自国の国民性についてはよく知っている。そりゃあ、固めたさ。衛兵も過剰なほどに置いた。特にアマーリアの侍女は厳選した。最近入ったような人間は一人もいなかった。ずっと私の近くにいた侍女しかいなかった」
レオさまはそれを、難しい顔をして黙って聞いている。
「言い聞かせもした。私の許可がない者は、決して屋敷に入れるなと。それがたとえ国王陛下でも、と」
「……その通りです。わたくしは、それを仰ったのを聞いていました」
小さな声だったけれど、お姉さまはウィルフレド殿下の言葉を補足した。
「アマーリア」
口を開いたお姉さまを労わるように、ウィルフレド殿下は私が握っているのと逆の手を握った。
「大丈夫です。わたくし……説明できます」
弱々しく微笑みながら、お姉さまはそう言って、レオさまのほうに顔を向けた。手が小刻みに震えていて、私はそれをぎゅっと握る。
「ウィルフレドさまが登城なさっていたときでした。わたくしは自室におりました」
ぽつりぽつりと、お姉さまが懸命に言葉を紡ぐ。
王太子の来訪を侍女に告げられた。聞いていない、ウィルフレド殿下の許可はあるのか、ないのならば穏便にお断りしてくれ、と返した。
けれど、許可はある、それに王太子殿下がご足労くださったのに断るなどと、と怒られた。怯んでいる隙に弟の婚約者に挨拶がしたいだけと仰っているのだから、と畳みかけられて通してしまった。
最初は本当に、向かい合って紅茶を飲んで話をしていただけだった。衛兵も侍女も控えていた。でも少しして、一人、また一人と衛兵も侍女もいなくなり、ついには二人きりになってしまった。
お姉さまはそこまで話すと、俯いて震えだし、言葉を発せなくなってしまった。
クロエさんは、小さく首を横に振った。その見知らぬ衛兵や侍女たちに憤ったのかもしれない。『仕える主人を間違えるなどと』とでも思っているのかもしれない。
「ウィル……ウィルフレドさまは……悪くなくて……わ、わたくし……が、迂闊で……」
お姉さまはそれだけを絞り出した。
迂闊とは言うが、キルシーに行ったばかりのお姉さまが、その申し出を断れただろうか。相手は王太子だ。それだけでもう断るには勇気がいる。お姉さまは、セイラス王国の弱小子爵家の娘なのだ。
しかも衛兵や侍女が控えているというのだ。まさかとも思うものだろう。
衛兵を置いて。
侍女たちをつけて。
なのに王太子はそれを難なく突破してきた。
「たまたまだ。たまたま早く帰ったら、どうも屋敷の様子がおかしい。慌ててアマーリアの部屋に向かったら、助けを求める叫び声がする。なのに侍女たちがそこに控えていて、衛兵までいる。なんとか扉を蹴破ったときには、王太子が逃げようとするアマーリアの髪をつかんでいるところだったよ」
お姉さまは震えながら、私にすがりつくように身体を倒してくる。だから私は腕を回してぎゅっと抱き締めた。ここは大丈夫だと、知らせたかった。
「もしもう少し帰るのが遅かったら、アマーリアは凌辱されていた。けれど」
思い出すだけで怒りを覚えるのだろう。ウィルフレド殿下の身体も震えている。
「これを、助けたと言っていいかわからない」
レオさまは、ウィルフレド殿下の腰にある剣にちらりと視線を移してから、口を開いた。
「殺したか?」
私はその言葉に息を呑む。
しかしウィルフレド殿下はその質問を当然だと言うように、流れるように首を横に振った。
「わからない。振り向いていない。何人か死んだかもしれないし、誰も死んでいないかもしれない」
お姉さまの息が荒くなってきた。ハッハッと小刻みに息を吐き出している。
「手応えはあったのか。特に王太子だ。思い出せ」
レオさまが重ねて言う。その声の響きが非情に聞こえた。
「もう……もう、いいじゃないですか」
私はお姉さまをさらに抱き寄せて、口を開いた。
「もう、十分に、話したでしょう?」
涙が出そうになる。けれど私は泣いてはいけない。
お姉さまは、泣いていない。
私は奥歯をぎゅっと噛みしめた。
私が先に泣いてはいけない。
傷ついているのは、お姉さまなのだ。




