39. 傷と痣
※ 女性への暴行未遂について書いています。直接的な表現はありませんが、この回から三話程度はそれについての記述がありますので、苦手な方は飛ばしてください。
よろしくお願いいたします。
「お静かにお願いします」
クロエさんが、冷静な声でそう言った。
なので私は慌てて自分の口元を両手で押さえる。
「プリシラ……ごめんなさい、急に帰って来てしまって……」
か細い声が、白い布の中から聞こえる。布を被っているせいで、お姉さまの顔がよく見えない。それにまたすぐに顔を背けて、ウィルフレド殿下のほうを向いてしまった。
いったいどうしたっていうんだろう。なにが起きているんだろう。
「ど、どうしたんです。どうしてここに」
抑えた声が、震える。なにから訊けばいいのかわからなかった。
なにか、良くないことが、起きている。
それだけは確信できたから。
「どうしたんだ、いったいいつ入国した。聞いてないぞ」
レオさまもわけがわからないのか、そう聞きながら何歩か歩を進める。
しかしその足音に合わせたように、またウィルフレド殿下が手を添えている白い布のかたまりが、ビクリと震えた。
レオさまが、眉根を寄せて、ピタリと足を止める。
「あ……も、申し訳ございません」
足音が止まってしまったのを聞いたのだろう。お姉さまの小さな声がする。白い布がブルブルと震えていた。
そうだ、お姉さまなら、レオさまがいるというのにソファに座ったままという、そんな礼を失するようなことをするだなんて考えられない。
どうして? 怪我でもしている? キルシーに行く途中で事故にでもあって引き返してきた? それとも、まさかもう離縁?
いろんな考えが頭に浮かんできたけれど、どれもこれも、しっくりするものではなかった。
「お姉さま、いったいなにがあったんですか」
こうしていても仕方ない。私は意を決してお姉さまに歩み寄る。誰もそれを止めはしなかった。
「プ、プリシラ」
お姉さまの震えが幾分か収まった。私はほっとしながら、お姉さまの横にそっと腰掛ける。
同時にウィルフレド殿下は、抱いていた肩から手を離す。
「お姉さま?」
なるべく優しい声音で呼び掛けると、お姉さまは小さく身じろぎして、そしてゆっくりとこちらに顔を向けてくる。
布に覆われた乱れた髪の間から見えるのは、変わらない美しい顔の左側。
そして現れるのは、青黒く腫れあがった、右側の頬。
「な……」
お姉さまの顔の右半分は、痛々しいほどに腫れている。口の中を切ったのか、口の端には血だまりができていた。
「お姉さま」
信じられない思いで、その顔を覗き込んだ。
私の視線を避けるように、お姉さまは顔を背ける。
けれど私は腕を伸ばし、その腫れた頬に手を当てた。
熱い。
お姉さまの、誰もが振り返るその美しい均整の取れた顔が、見るに堪えないものになっている。
どれだけ強い力が加えられたらこんなことになるんだろう。
「お姉さまになにをしたんですか!」
衝動のままに叫んだ。
「お静かに」
クロエさんの冷静な声がしたけれど、これが黙っていられることか。
これは、明らかに、殴られた跡だ。
「すまない……」
ウィルフレド殿下が、うなだれてそう返してくる。
頭の中が白くなった。カッとなって立ち上がる。
「これが謝って済むことですか! なんてことを!」
「違うのよ、プリシラ」
お姉さまが慌てたように、私を抑えるために右腕を伸ばしてくる。
こんな目に遭ったのに、この男を庇うというのか。いくら盲目の恋だからって、こんなことは許されることじゃない。
誰が許したって、私が許さない。
「なにが違うっていうんです!」
「ウィルフレドさまは助けてくださったのよ」
助ける? ではこれはウィルフレド殿下がつけた傷じゃないということなのか。
けれどお姉さまはこんなに傷ついている。助けられてはいないではないか。
「いったい、なにから助けたっていうんです!」
お姉さまは、ためらいがちに口を開いた。小さな小さな声だった。
「王太子殿下から……」
「……え?」
思いもよらない言葉を聞いて、私の身体から力が抜ける。
布の中から伸ばされた、お姉さまの腕が私の手に触れて、そしてさまようように動いたあと、弱々しく握ってきた。
私はその腕に、恐る恐る視線を移す。
今、なにか見てはいけないものが、視界に入った気がしたのだ。
よく見れば、お姉さまの手首に痣があった。指の形がわかるほどに、はっきりとした痣だった。
誰かが握った跡だ。
ゾッとする。燃え上がっていた身体が、一瞬にして熱を失う。
そのとき、小さなため息が耳に届いた。私はそれを、どこか遠いところで発されたもののように、虚ろに聞いた。
「なにがあったのか、説明してもらおうか」
レオさまの、冷徹とも思えるその声が、応接間に響いた。




