32. これから始まる
それから三日後に、領地に帰ることとなった。
王子の婚約者として、ものすごく気の付く侍女たちに丁重に扱われて、元の生活に戻れるのかどうか不安になってきたくらいに、私は王城での生活を満喫した。
退城するときには、レオさまが馬車どまりにまで来てくれた。見送りをしてくれるらしい。
「では、そちらに向かう前には文をやるから」
「はい」
「よろしく頼む」
「はい」
なんというか、婚約者が離れ離れになるって感じではないなあ、と思う。
まあ急造婚約者だから、それも当たり前なんだけど。
しかし隣では、急造の割に濃密な別れが繰り広げられている。
「アマーリア、近いうちに必ず迎えに行く」
「お待ちしております、ウィルフレドさま」
「それまで、私のことを忘れないでいて欲しい」
「まあ、わたくしがウィルフレドさまのことを忘れるだなんてありえませんわ」
「なんて嬉しいことを言ってくれるんだ、私の可愛い人」
「ウィルフレドさま……」
そうして二人は胸の前で互いの手を組んで、見つめ合っている。
あんまり濃厚に接していると、飽きるのも早そうな気がするから、ちょっと心配だなあ。
なんて思いながら二人を見つめていると、レオさまの声がした。
「まあ、いろいろあったが」
言われて、振り返る。
指先で頬を軽く掻きながら、視線をわずかに逸らして、レオさまは言った。
「楽しめそうだ」
これからの人生を。
そういう意味かな。
だったら、ちゃんと目を見て言ってほしいなあ。
なので私は目を逸らした先に顔を移動させた。レオさまは驚いたように身を引くと、さらに視線を移した。
だからまた私はそちらに身体を動かした。
レオさまはため息交じりに言う。
「君はなにをしている」
「視界に入ろうと思って」
「入っている」
「入っていない気がしたので」
「それは君の思い違いだ」
「そうですか?」
「そうだ」
そんな馬鹿なことをしていると、濃密な別れを繰り広げていた一人、ウィルフレド殿下がこちらを見て口を開いた。
「レオ」
「なんだ」
救いの声だと思ったような顔をして、レオさまはそちらに振り向く。
ウィルフレド殿下は私たちを見比べると小首を傾げた。
「レオはどうしてプリシラ嬢に対して、『君』なんだ?」
「えっ」
「プリシラ嬢は、愛称呼びなのに」
「それは」
それは、あの夜会までは私たちは婚約者どころか、会ったことすらなかったからですよ。
けれどウィルフレド殿下にだけは、絶対に言えないことですね。
レオさまはどう言おうかと迷っているのか、「いや……」「その……」と口元をもごもごと動かしている。
ウィルフレド殿下は呆れたように腰に手を当てて、続けた。
「ずいぶん他人行儀だな。愛する婚約者なんだろう? そろそろ壁を取っ払ったらどうだ」
さすが、あっという間に力づくで壁を粉々に破壊した人は言うことが違う。
「照れ隠しなのか?」
「そんなことは」
レオさまが困っているなあ。背中に冷や汗を掻いているんじゃなかろうか。
「いえ、私はどちらでも」
そう言って手を振ろうとしたけれど、思い直す。
まあ、『気に入って』『ワガママを言って』婚約者に選んだのだから、『君』というのも不自然なのかな。今がいい機会なのかもしれない。
なので私はレオさまの正面に立って、彼の顔を見上げた。
「えと、じゃあこれからは、私も名前で呼んでもらえると嬉しいです」
「そ……そうか。じゃあ……」
レオさまも、いつまでも『君』だと不自然だと思ったのか、一つ咳払いをして、こちらを向いた。
しかしなかなか呼ばれない。
抵抗があるのかな。
よし、辛抱強く待とう。ごまかしはナシですよ。
するとしばらくしてから、レオさまは口を開いた。
「プ……」
うん。
「プリ……」
がんばって。
「プ……」
戻った。
「プリシ……」
あと一息ですよ。
だんだん、息子を見守る母の気持ちになってきた。
「プリシラ……」
そう言って、一仕事終えたように、ほっと息を吐く。
「はい、レオさま」
よく言えました。
すると彼は数回目を瞬かせたあと、安堵からか、柔らかな笑みを返してきた。
うわ……。
なんというか、やっぱり破壊力がすごい。
いけない、頬が熱くなってきた。
どうしていいのかわからなくなって、二人して向かい合って、頬を染めて、もじもじと指先を弄んでしまう。
なんだか、まるで本当に婚約者同士みたい。いや婚約者同士なんだけど。
その様子を見ていたウィルフレド殿下は、ニヤリと笑って言った。
「婚約者だというのに、これから恋が始まるような雰囲気だな」




