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飛州三木家興亡録  作者: pip-erekiban
第二章 三木良頼の謀略
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永禄江馬の乱(十)

 長尾景虎上洛の虚を衝いて奥飛騨まで進んだ武田勢は、斯くして撤退した。無論それは、武田の大軍が五十倍の敵を目の前に果敢にも一騎討ちを挑んだ江馬常陸守輝盛の武威に恐れをなしたからなどではなくして、江馬時盛服属という所期の目的を果たしたからに他ならない。

「甲陽軍鑑」はこの時の戦いを永禄二年(一五五九)のこととし、


(前略)六月末に飯冨三郎兵衛、甘利左衛門尉(さえもんのじょう)馬場民部助三人の侍大将に被仰付、飛騨の国へ御手づかひなされ、飛騨侍しらや筑前守、江間常陸守両人弓箭の家風をひきみる時、せりあひに飯冨三郎兵衛我同心被官をこし自身鑓あはする(後略)


 と記録している。

 年次に誤りが多く、史料的価値を危ぶむ声が圧倒的多数だった「甲陽軍鑑」であるが、言語学的検討を加えた結果、当代に使用されていた話し言葉を多用していることが判明し、春日虎綱の言を口述筆記したと「軍鑑」自体に記載されている成立過程と矛盾しないことが明らかとなった。また「軍鑑」の記述を傍証する史料的発見も相次いでおり、その価値は近年大きく見直されている。武田信玄と同時代を生きた人が、体験に基づいて、自分自身が事実と信じる事蹟を記した良質の史料という見方が、現在では大勢を占める状況である。

 永禄二年に武田勢が奥飛騨ヘと兵を進めたと記録する史料は「甲陽軍鑑」「江馬家後鑑録」などの軍記物に見られるのみである。しかしこの年、長尾景虎上洛の隙を衝く形で武田信玄は川中島に海津城を築城していたようであり、その一環として一部の武田勢が飛騨に侵入したのだとしても不思議ではない。「軍鑑」の著作者は確かに、武田勢の飛騨侵攻を聞き知って、先の一文を筆記させたのであろう。


 いずれにしても飛騨存亡に関わる脅威は去った。これにより哀れを醸すこととなったのは、武田の軍門に下り、平湯村駐屯を許した江馬惣領家の人々である。武田の威を借る時盛は二階に上がって梯子を外された形となり、一族傍流江馬常陸守輝盛をこれまで白眼視し家中に孤立させていた立場が一転、自分自身が飛騨国内に孤立することとなった。


 三木良頼は三枝城大広間の下座にひれ伏す江馬左馬助時盛及びその舎弟麻生野(あそや)右衛門大夫直盛に白い眼を向けていた。広間には両名を取り囲む三木の諸将。その中には此度戦役で敵将飯冨源四郎昌景と死闘を演じた江馬常陸守輝盛とその傅役河上中務丞富信の姿もある。

 時盛を主筋と仰ぐ両名であるが、広間での風景を見る限り、いまどちらが上位にあるかは明白であった。

「そこもと等両名は三木家と江馬家の永年にわたる友誼を無視し、平湯村に他国の兇徒を引き入れた行いは国内諸衆に対する裏切りに等しく許しがたい。

 一つ問う。

 何故斯くの如き恥ずべき行為に及ばれたか」

 ドスの利いた声で上座から詰問する良頼である。

 武田家の後ろ盾を失い、流れる冷や汗を止めることが出来ない江馬時盛と麻生野直盛両名。ひれ伏す時盛の眼に映るのは、広間の床に滴り落ちた自身の汗滴が床板の目地に吸い込まれる光景だけであった。

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