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飛州三木家興亡録  作者: pip-erekiban
第二章 三木良頼の謀略
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永禄江馬の乱(九)

 武田の陣中よりうしお沸くが如き喚声が沸き起こる。五千を超える人々の喚声は、比喩ではなく本当に大地と空気を揺るがした。

 寄り集まる人々の塊が二つに割れ、一騎討ちに応じた敵の侍が輝盛の前に姿を現す。その姿は遠目にも小柄に見えた。

 その小柄な敵の侍が鑓を挙げると、武田の将兵は喚声を止めた。

 敵は言った。

「江馬と申せば我等武田に与党した江馬左馬助時盛殿以外に知らぬ。思うに主君の意思にたがう不逞の輩であろう。しかし一騎討ちを挑んで、諸兵を無為に苦しめまいとする志は買おう。

 我こそは信玄公旗本にして武田の侍大将飯冨源四郎昌景」

 高らかな名乗りとともに再び巨大な喚声が沸き起こる。


 自ら挑んだとはいえ輝盛は鑓を合わせる前から気圧けおされつつあった。

 というのは、確かに敵の剛勇の侍と鑓を合わせる覚悟は定まっていたが、まさかこの大軍を引率する飯冨源四郎自らが名乗りを挙げて一騎討ちに応じるとは思ったもみなかったからである。

 しかもその身形みなりはといえば、他の侍衆と比較しても明らかな短身痩躯。特別膂力に優れているようにも見えない。この貧相な敵将を相手に死闘を演じてみせても白々しく見えるだけではないか。

(いっそのこと、ひと突きに突き落としてしまおうか)

 意図的に引き分けに持ち込もうという戦前の決意も忘れてそのようなことを考えてしまうほど、輝盛にとってこの勝負は安易なものに思われた。

 輝盛は戸惑いを感じつつも、鑓を構え突進してくる飯冨源四郎に向かって引き絞った矢を放つ。

 対する飯冨源四郎はといえば、飛来する矢に恐れもしない。ただ騎乗しながら頭を伏せ、兜の鉢に矢を弾かせてひたすら騎馬を励ますだけである。輝盛は長弓を投げ捨てて従者から手鑓を受け取った。

 双方が鑓を合わせる。

 と、思った刹那。

 輝盛の目の前から飯冨源四郎が姿を消した。見れば相手は巧みに騎馬を操り、輝盛の右側へとその位置を逸らしているではないか。

 輝盛も源四郎も利き手の右に手鑓を握りながら、敵を右側に置く不自由な体勢のまま、互いに鑓の柄を競り合わせる。しかしここでも源四郎は、輝盛の圧力を正面から受け止めようとはしない。両者は示し合わせたかのように鐙を蹴って、十間(約十九・五メートル)ほども距離をとった。

 輝盛は再度源四郎に打ち掛かった。源四郎はといえばやはり正面から受け止めるの愚を犯さない。騎馬を輝盛の右側へ右側へと回り込ませる。両者の体勢は先ほど同様、たちまち窮屈なものになってしまった。


 塩屋筑前は一騎討ちを遠望しながら、傍らに馬首を並べる輝盛麾下河上富信に対し、

「輝盛殿は大丈夫であろうか。自信ありげだった戦前の様子とは打って変わって苦戦の模様であるが……」

 と不安を口にしたが、富信はむしろ

「いや、敵の短身痩躯をこの目に見たときには戦前の約束も忘れ一気に打ち落としてしまうのではないかと冷や冷やしたが、あれほどの使い手であれば如何に輝盛とはいえそう簡単に打ち落とせまい。御安心召されよ」

 と、かえって輝盛の苦戦に安心しているような有様である。

 

 既に両者鑓を合わせること数十合に及んでいた。時節柄蒸し暑い気候のころとあって、両者汗みどろである。

 晴天に灰色の雲がかかりはじめた。

 一粒。そしてまた一粒。

 大粒の雨が滴り落ちてきて、やがて篠突く雨になった。


「潮時ではないか」

 鑓の柄を合わせ、肩で息をつきながら飯冨源四郎が言う。

「そのようでございます」

 輝盛が応じた。

 両者互いの鑓を弾き、距離を取る。

 大粒の雨に叩かれながらしばし睨み合う両者。源四郎の口角が上がった。

「再びまみえようぞ」

 飯冨源四郎はそう言うと、馬主を返して近くに控えていた被官人を従えながら泰然、自陣へと消えていった。

 敵勢と比較して遙かに貧弱とはいえこれも同じく自陣へと引き返していく常陸守輝盛。

 出迎えた河上中務丞(なかつかさのじょう)富信は

「相手は短身痩躯。体軀に優る敵方の圧力を巧みに躱し翻弄する戦いぶりは、それはそれで手練の武者というべきでしょう。それがしも自分より柄の小さい相手との戦い方を、殿には教えてございませなんだな」

 と言った。

「ああ。またよろしく頼む」

 輝盛の顔を、汗との雨ともしれぬ雫が濡らす。

 その雨はあっと言う間に止んだ。

「あ……あれを!」

  塩屋筑前が武田の陣を指差しながら叫んだ。

 敵はめいめいに旗を収め、陣幕を巻き取っている。極端な縦陣をつくり、長い長い尾を引き摺りながら南を目指し発向する武田勢。

 狭隘な峠道を再び越えるために、このような単縦陣を組んだものと思われた。

 引率の大将が演じた一騎討ちを見届けて、撤退しようというのであろうか。

「助かったのか……」

 塩屋筑前は敵の隊列を見送りながら、脱力したように呟いた。

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