永禄江馬の乱(七)
三木良頼にとっては不条理な自然災害にも似た武田の侵攻であったが、甲信二箇国の総帥武田信玄はなにも地震や台風のように、気紛れに五千もの大軍を動かしたわけではなかった。
このころ、越後の長尾景虎が五千の兵を率いて上洛していたことは先述した。景虎はこの上洛で今上帝(後の正親町天皇)に拝謁し、私敵治罰綸旨即ち武田信玄討伐の綸旨を賜った上で、将軍義輝からは信玄によって本拠林城から追放されていた小笠原長時の信濃復帰支援命令を拝受している。公武双方のトップから信濃後略のお墨付きを賜った形だ。
中央政府をも巻き込んだ景虎の遠大な戦略に対し武田信玄は奥飛騨への出兵で応じた、と聞けば、なんともしみったれた反撃のように思われるかもしれないが、奥飛騨というところは越中国境に位置しており、ここを確保すれば武田領国と越中一向一揆勢との連絡が容易になる要地であった。
越中一向一揆といえば景虎の父為景のころから何度も長尾家と干戈を交えた間柄であり、長尾景虎にとっても不倶戴天の敵といえる勢力である。武田と越中一向一揆が強固に結びつけば、越後は西と南から同時多発的に圧迫を受けることになるわけで、景虎にしてみれば、この時期の武田による奥飛騨侵攻は、京都の軒先を借りて春日山城の母屋を乗っ取られかねない重大事件であった。
武田の動きは景虎不在の隙を衝いた軍事行動だったのである。
しかしこれなどそれぞれの大国上層部の思惑であって、実際に武具を担いで合戦に参加している下々の軍役衆にとっては与り知らない話である。彼等はただ、御大将の下知に従って戦場を駆けずり回り、敵首を挙げ、或いは略奪狼藉を働き、いくらかの稼ぎを得て身を肥やすことこそ合戦に参加する最大の目的であり大名への忠節の根源であった。
しかし財に乏しい飛騨のような国柄では、如何に略奪狼藉にいそしもうがあがりは薄い。
上層部の思い描く大戦略と、個々の軍役衆の利害が一致した上で起こすいくさが理想的である。しかし分国法の制定などで大名権力が強大化していくにしたがい、軍役衆は、彼等にとって負担でしかない合戦への出陣を強制されるようになっていく。後年の話にはなるが豊臣秀吉による朝鮮出兵などその極致であろう。
そういった意味で、今回の奥飛騨出兵も朝鮮出兵と同様の性質を持ついくさであった。
武田信玄は越中一向一揆との連絡確保を主目的として軍勢を派遣したものであったが、従軍する武田の軍役諸衆の間で、主君が思い描く大戦略の成否を問題にする侍が如何ほどあっただろうか。
彼等下々の軍役諸衆はただ、あがりの薄いいくさに倦むのみであった。
近年俄に頭角を現してきた武田の能吏飯冨源四郎昌景は、主武田信玄の思惑を知る数少ない軍役衆の一人であり、このたびの奥飛騨派遣軍を任された侍大将である。
信玄官僚であるのと同時に武田の軍役衆でもある源四郎昌景だから、彼には軍役諸衆の声なき声が聞こえるのである。
要するに源四郎昌景は、能吏であるがゆえに信玄から
「軍役衆の不満を抑えつつ、同時に江馬家を服属させて越中との連絡通路を確保せよ」
という難しい命題を与えられていたのである。だからこそ源四郎は、時盛舎弟麻生野右衛門大夫直盛に碁石金を与え、武田との連絡窓口に指定して、戦う前から江馬の服属を確実なものにしようと目論んでいたのである。
江馬の如き小名であれば武によって屈服させることなど造作もなかったが、それにしたところで幾分かの犠牲は避けられないだろうし、そこで流される血こそ無駄というべきであろう。損失を補填できる込みもない。
なので飯冨源四郎は今回の出兵を
「武田は大軍を派遣して江馬家を屈服させた」
という名目を得るための、形ばかりのもので終わらせるつもりであった。




