大永元年の乱(三)
三木右兵衛尉直頼からの急使が駆け込んだのは、江馬家先陣を務める河上中務丞重富陣中であった。重富は急使が差し出した手紙を携え、左馬助時経が座する本陣へと赴いた。
「まこと、右兵衛尉殿の律義なことよ」
家老が差し出した手紙を一読し、時経はそう呟いた。
手紙には
此度のいくさは既に勝敗も見えており、どう考えても不条理ゆえに当家では和睦を考えている。しかし時秀公の下命による出兵とはいえ、江馬殿に援軍を請うたのは当家に違いなく、そちらの諒解を得ることなく和睦に及んだとなれば江馬家の面目を潰すことになり、両家の信頼関係に関わるであろうから、あらかじめお知らせした。もし江馬御家中が和睦交渉に反対というのであれば、当家とてそもそも弓矢をもっぱらとする家柄。当初からの存念に従い、古川家中衆相手にいくさするにやぶさかではないが如何か。
といった内容が記されていた。
文中では、叛乱の鎮圧を直頼に命じた小島時秀の存念についてはひと言も言及されてはいなかった。ちょっと考えてみれば分かることだが、確かに時秀の存念など訊くまでもなく既に明らかである。
即ち
「古川家中衆許すまじ。和睦まかりならん」
これに違いないのである。
古川家中衆討つべしと狂騒するだけで、叛乱の沈静化に主体的な動きを見せようとしない時秀に口出しはさせない。
直頼の強い決意が、行間ににじみ出るような手紙であった。
「そこもとはどう考えるか」
時経は家老河上重富に訊いた。
老臣のこたえて曰くは
「右兵衛尉殿の存念どおり、ここは和睦交渉に及んで兵を退くのが上策と考えます」
としたうえで、更に
「当家は三年前、古川めがけて南下した時重、時綱を討った家柄。その当家が舌の根も乾かぬうちに古川を滅ぼすいくさを敢えて主張することは、他国への外聞も悪く、憚られることでありましょう」
と、言いよどむことなく附言した。
時経は、
「なるほどまことそこもとの言うとおりだ」
と、感心した。
三年前の永正十五年(一五一八)、時経の父三郎左衛門尉正盛は、三木重頼の死を契機として蹶起し、古川に向けて南下していた旧惣領家江馬時重時綱父子を、三木直頼と協働して討ち滅ぼした経緯があった。
所謂永正江馬の乱である。
正盛は既に隠居の身であったが、時経とてその戦役に参陣していた身である。三年前に扶けた古川家を、今日討ち滅ぼそうというのでは確かに道理に合わぬ。
「和議の件、直頼殿にお任せすると伝えよ」
時経は重富にそう言って、和睦交渉の開始を了承したのであった。




