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飛州三木家興亡録  作者: pip-erekiban
第二章 三木良頼の謀略
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永禄江馬の乱(一)

 時盛は良頼の飛騨国司叙任の宴を欠席し、良頼は良頼で、経盛の改名を通じて江馬家中の人事に手を突っ込む行為に及んで、このころの両家は当てつけ合戦を展開するまでに関係が悪化していた。この期に及んで時盛は、甲斐武田氏と誼を通じること迷いはしなかった。

 時盛は密かに弟麻生野(あそや)右衛門大夫直盛を甲斐に向けて派遣した。江馬家で最初に武田家と接触した直盛をその取次に指名して、交渉窓口を持つためであった。

 無論良頼は江馬時盛が密かに武田と通じたことを知らない。

 ただ、自分が飛騨国司に叙任されたことで、飛騨国衆が押し並べて自分にひれ伏すと考えていた目論見が外れ、時盛の如き不満分子を生み出してしまったことは、良頼にとっては心外の出来事であった。ここで良頼が己が驕慢を戒め、時盛が心中秘かに抱く鬱憤を心静かに聴取し、その意を酌むというのであれば、真に国司に相応しい度量の持ち主と賞賛することも出来ようが、良頼は時盛が三木家に対して鬱憤を抱いたことを、時盛特有の狭量に由来するやっかみだと決めつけたあたりは、到底器量人といえない心根である。

 そして良頼は、引き続き嫡子光頼の国司叙任に向けた献金を幕府朝廷双方に行うとともに、甲斐武田氏と水面下で交渉を持とうという時盛の動きを全く感知しないままに、その武田氏と不倶戴天の間柄ともいえる越後長尾氏との交渉を模索するようになるのである。

 ただ、これは良頼が思いついてそうしたという性質のものではなかった。実は越後長尾家と飛騨三木家は、越前朝倉家を通じて過去に間接的な交渉を持ったことがあったのである。

 ころは天文二十四年(一五五五)八月のことであった。これはちょうど、第二次川中島合戦が行われていた時分であった。合戦とはいうものの、この戦いは四月から閏十月までの二百日にわたるほとんどの期間を対陣に費やしている。戦いは膠着状態に陥り、双方が食糧の欠乏や兵の欠落かけおちに苦しむ中、何とか事態を打開しようと努力した形跡が窺われるのである。

 そのひとつが、「明叔録」所収朝倉宗滴発三木右兵衛尉(うひょうえのじょう)良頼宛文書である。


長尾方信州出陣付而、差遣陣僧候条、越中境目迄、路次番之儀被仰付候者、可為祝着候、仍加州出陣、去月廿一日罷立一乗、金津着陣、廿二境目細呂木山に野陣、廿三加州橘山致陣取、遣足軽村々放火(後略)

   八月廿日        宗滴(判)

     三木右兵衛尉御宿所


 即ち、長尾景虎が信州(川中島)に出陣しているので、そこへ陣僧を遣わすために飛越国境の路次番を朝倉宗滴が三木良頼に依頼しているのである。路次番の依頼に引き続き宗滴は、七月二十一日から二十三日に至る加賀方面での戦果を良頼に報じている。

 これは長尾景虎が、長尾家と朝倉家にとって共通の敵ともいえる加賀一向一揆の足留めを、朝倉家に依頼したことを示している。着陣早々生起した膠着状態の中に身を置く長尾景虎にとって、最大の不安要素は北陸一向一揆勢に背後を衝かれることであった。景虎はこの動きを止める目的で、朝倉家に対して加賀出陣を依頼したのである。朝倉家は景虎からの依頼に応じて、重臣朝倉宗滴を加賀へ出陣させたのだ。宗滴は川中島で武田晴信と対陣し、身動きの取れない長尾景虎と連絡を取り合うために、良頼に路次番警固を依頼したのがこの文書の意味するところである。

 これは裏を返していえば、川中島での膠着状態を打開するために、武田晴信から加賀一向一揆に宛てて、越後を背後から脅かすよう要請があったことを暗示している。武田晴信の要請に従って越後を衝こうという加賀一向一揆の動きを長尾景虎が察知し、その上で越前朝倉家に加賀出兵を依頼したものと考えられるのである。

 このように、第二次川中島合戦と連動したこの時期の北陸一帯の動きを俯瞰すれば、川中島の戦いというものが、信州北辺の支配権を巡る単なる局地戦に過ぎないという見方が如何に的外れなものか分かっていただけるだろう。

 ちなみに余談ではあるが、もし武田晴信が越後を抜いて北陸道西進の途に就いたあかつきには、京洛に至るまでに武田勢が出会でくわす最大にして唯一の障壁こそ越前朝倉家ということになる。もしかしたら朝倉義景は、越後が武田の手に落ちれば次は自分達だという危機感を持って、可能な限り長尾景虎を支援する目的で三木良頼に陣僧通過の路次番を依頼したのかもしれない。

 唇滅びて歯寒しのことわざに倣い、越後を後援するために加賀出兵を敢行した。そのようなことを想起させる宗滴書状である。


 さて良頼である。

 飛騨国司として国内に覇を唱えることに躍起になっていた良頼は、信濃から越後、そして北陸各勢力を巡る巨視的視点を持たない。その名を国司の権威で飾り、大国越後長尾家の威を借りることが、飛騨支配を確実にする唯一の方法だと良頼は信じて疑わなかった。

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