国司叙任(八)
勅使饗応の宴は盛大かつ滞りなく執行された。良頼は飛騨守たるに相応しい財を有していることを――もっともこれとて、塩屋筑前守からの借金によって賄われたものであるが――中央から派遣されてきた勅使に嫌というほど見せつけることに成功したのである。
曾て見なかったほどの豪勢な膳に勅使は瞠目し、国内諸衆でいえば廣瀬山城守の如きは言うに及ばず、一昔前までであれば名門姉小路家の血筋を頼りに激しく三木家に挑み掛かってきた小島家や向家の人々でさえも、皆押し並べて三木良頼の威勢の前にひれ伏しているのである。
しかし良頼は満足しなかった。
この世をば 我が世とぞ思ふ望月の
欠けたることも なしと思へば
前代未聞の一家三后を成し遂げ、天皇の外戚として権勢を振るった彼の藤原道長の権勢には遠く及ばないが、飛騨国内で最も力のある者が名実ともに飛騨の国守になったことにより、有名すぎるこの和歌を詠んだ藤原道長と心持ちを同じくすることを密かに願う良頼であった。
しかし望月が美しければ美しいほど、これにかかる薄雲が却って憎らしく思えるあたりは、鷹揚に薄雲を許すことが出来ない人間の性であるといえよう。
良頼は、江馬左馬助時盛が祝賀の宴に出席せず、あまつさえ名代としてあの常陸守時貞の遺児を出席させたことに、時盛が狙ったとおりの不快を感じていた。良頼にとって自らの叙位任官を喜ばない時盛のやり方は、まさに望月にかかった薄雲にほかならなかったのであった。
宴を終えて勅使一行を見送り、更に廣瀬山城守や三カ御所の人々までも見送ったあと、良頼は高原殿村に向けて帰ろうという江馬常陸守経盛と河上中務丞富信を引き留めた。
良頼は確かに、江馬左馬助時盛の心を憎んだ。自身の国司叙任を祝う宴への出席を、病気や積雪を理由に断った挙げ句、ほんらいであれば弟麻生野右衛門大夫直盛あたりを名代として派遣してくるべきところ、あろうことか天文十三年の乱で三木家に楯突いた江馬常陸守時貞遺児を派遣してきたのだからそれも当然であった。
しかし良頼はその苦々しい心持ちを、目の前に伏す経盛主従に悟られぬよう巧みに隠した。
嫡子光頼よりも四つほども若年、元服したばかりの若武者に、良頼は慈父のような眼差しを向けて言った。
「そなたの御父上は我等と干戈を交えた。そのことは知っておるか」
経盛は己の不行跡を指摘されたものの如く、ははっ、と畏まって
「はい。存じております。未だ生まれていなかったころのこととは申せ、申し開きようもございません」
と言ったが、良頼はその経盛の言葉を遮った上で
「良い。何もそなたの御父上をこの場で責めようというのではない。むしろその逆である。
そなたの御父上は越中と飛騨をつなぐ街道を押さえ、我等の橋頭堡となるべき寺を焼き払い、果敢にも高原から小八賀あたりまで押し寄せたものだ。我等は幸運にもそなたの御父上を打ち破ることが出来たが、それも数に任せてのこと。引率の将に似て兵もまた精強を極め、もし兵の数に差がなければ我等が敗軍の将に身をやつしていたとしても不思議ではない紙一重の戦勝であった。そなたの御父上は、まこと知勇兼備の大将であったぞ。
その時貞殿の遺児が登城すると聞いて、勅使御一行をお迎えしているうちはゆっくり話すことも出来なんだゆえ、いまこうやって引き留めたのだ」
と、経盛亡夫時貞に最大級の賛辞を贈った。




