国司叙任(七)
かくして弘治四年(一五五八)正月十日、飛騨の三木良頼は従五位下飛騨守叙任を果たした。もっとも良頼が望んだのは嫡子光頼の叙任ではあったが、これは良頼が看破したとおり、
「光頼の国司叙任ヘの道は拓いた。光頼に国司職を授与するか否かは、今後の献金次第」
という関白近衛前嗣からの謎かけであった。
先例さえ拓かれれば、後は献金額次第で官職望みどおりというわけである。
良頼は叙任の勅使を桜洞城に迎えるにあたり、同城で執行することとなった饗応の宴に高原の江馬時盛、廣瀬郷の廣瀬山城守、或いは三カ御所の人々を招致した。
「見よ」
三木家からの招待状を、震える手で差し出す江馬左馬助時盛。受け取った弟麻生野右衛門大夫直盛は、兄の手の震えが極みに達した怒りによるものだと過たず看破した。
兄から差し出された手紙には
この度、三木家当主右兵衛尉良頼は関白近衛前嗣に猶子として迎えられ、位階は従五位下に叙され飛騨守に任じられた。ついては叙任の勅使をお迎えし饗応の宴を執行するので、桜洞城へと登城願いたい。
といったような内容が記されていた。
「早速国司気取りか」
直盛に対し、時盛は目の前に良頼本人を置いているかのような剣幕で毒づいた。それも無理のない話だ。
確かに江馬と三木とでは持っている力が違った。飛騨国府の過半を手中に収めた三木家と、高原殿村から積極的に打って出ようとしなかった江馬家との力の差は既に歴然たるものになっていた。それぞれの父、三木直頼と江馬時経が同列に位置する盟友として手を携えながら飛騨経営に邁進していた大永享禄(一五二一~三二)のころと比較して、いまは三木家圧倒的優位の関係にあることは否定できない。その傾向は既に父時経の晩年には明らかとなっており、そのことを知る時経は、ともすれば三木家に対する不満を隠さない時盛に対して、
「三木家との友誼を重んじよ」
と繰り返しながら死んでいったのだ。
時盛はその父の遺言を重んじて、内心三木家に対する鬱憤を溜めながらも三木家との友誼を重んじてきたのである。
時盛は、遡ること十八年前(天文九年、一五四〇)に亡くなった妹月姫の死因を、三木家による毒殺だといまも信じていた。
幼かったころ、転がるようにしてともに高原の野山を駆けまわった妹、月。病気の一つもしたことがなく、頑健そのものだったあの妹が、良頼との婚儀が間近に迫ったころを狙い澄ましたかのようにみるみる痩せ細り、衰えて死んでいった姿を時盛は忘れることが出来ない。
そして時盛が、
「三木家が匿っている古川の姫が、何者かの子を孕んだらしい」
という噂を耳にしたのは、月姫が亡くなってすぐ後のことであった。
時盛にとって、古川英子が腹に宿す子の父親が三木良頼であることは明白であった。当時古川英子は桜洞城で養育されており、その城を任されていたのが良頼であってみれば、名門古川の血を引く姫を養育する桜洞城の一角に、自由に出入りできる男性が城主良頼以外にいるはずがなかったからである。
英子は腹に子を宿したまま、取って付けたように向家の養女となった。これも直頼の半ば脅迫によって、向家が嫌々ながらも家中に迎えたものであった。古川済俊の血を引き、姉小路向家の養女となった英子が良頼との婚儀を挙行したのは、その年のうち、子が生まれる直前のことであった。
このような経緯を思い返せば思い返すほど、時盛は良頼が執行するという勅使饗応の宴に出席する気が失せていった。江馬家に対する裏切りの果てに生まれた三木光頼の国司叙任ヘの布石だと思うと、時盛にとって祝宴への出席は有り得ない選択であった。そしてそのような心持ちを抱く時盛に対し、いけしゃあしゃあと宴への出席を求める良頼に対して、時盛の怒りは頂点に達したのである。
しかしだからといって、怒りに任せ勝ち目のないいくさを起こすほど単純な時盛でもない。
自身の出席は病と積雪を理由に断るつもりであったが、名代を派遣することとした。名代の派遣とはいっても、たとえばこれが本当に自分自身の分身として全幅の信頼をおける人物であれば、自分が出席したのと何も変わりがない。
三木家が
「時盛はどうやら良頼の国司叙任を喜んでいないらしい」
と察することが出来る人物を名代として派遣しなければ意味がない。
時盛にとってそれは、常陸守経盛以外になかった。天文十三年(一五四四)、家老河上中務丞重富と共に蹶起した江馬常陸守時貞遺児である。当初、父時貞の幼名と同じく菊丸と称していたものであったが、元服を機に先代時経の偏諱と亡夫時貞の常陸守を与え、
「江馬常陸守経盛」
と称していた者であった。
時盛名代として派遣されてくる者が、よりにもよって三木直頼に討伐された叛逆者の子であってみれば、三木家は江馬時盛が内心に抱える不満を敏感に嗅ぎ取るだろうと思われた。
時盛は常陸守経盛に、その家老河上中務丞富信を付して桜洞城へと派遣した。
主従二人は惣領時盛に命じられるまま、雪深い飛騨路を、南へ南へと下っていった。




