国司叙任(六)
官途奉行摂津氏より朝廷に対して三木家の国司叙任が奏請されたのは、同年中(弘治三年、一五五七)のことであった。
この年の十月に即位されたばかりの新帝(後の正親町天皇)は、御簾の奥より臣下の者どもに対し、このたび武家より奏請のあった三木とは何者かとお訊ねになられた。
問われた女官の一は、
「飛騨守護代多賀氏の被官人で、近年俄に力を得た者と聞いてございます」
とこたえると、帝は、そのような者で国司の職に任官した例は過去にあるかと重ねてお訊ねになった。女官は互いに怪訝そうな顔を見合わせて
「聞いたことがございません」
とこたえるばかりである。
話はそこで終わるはずであった。
「新帝は存外に旧例に通じてあらしゃる」
将軍義輝や奉行衆上野信孝同様、良頼から献金を受け取っていた関白近衛前嗣は、奏請さえなされれば三木家の国司叙任は果たされるという見込みが外れ、そう嘆じた。しかしこれまで再三三木家からの献金を受領してきた身とあっては、帝がお認めにならないからといって引き下がるわけにもいかない前嗣である。
さっそく権大納言廣橋国光に
「先例となるべき旧記を博捜せよ」
と下命した。
しかし、この年上の部下は故実に通じており、禁裏の女官同様
「なんぼ探しても旧例は見つかりまへんやろなあ」
とまるで他人事だ。
前嗣は途端に不機嫌になった。
年長者とはいえ下命事項を歯牙にもかけず断ったのだから無理もあるまい。しかしそれは前嗣の早合点であった。
廣橋権大納言は言った。
「ありもせえへん旧記を探すよりも、関白殿が良頼を猶子として迎えればそれでこと足りる話ではありまへんか。良頼を藤家に入れて公家成させれば、子の光頼が国司職に就く事を妨げる理由は何らございまへんけどなあ。
今後の旧例にもなる話でございますし、関白殿にとっても、悪い話ではおまへん」
確かにありもしない旧記を探したり、解釈を巡って侃々諤々《かんかんがくがく》やり合うよりは手っ取り早い方法である。前嗣の意志次第で何とでもなる話というところがまたおいしい。
三木良頼を猶子として近衛家に迎え入れ、本姓を藤原氏にして公家成を果たして上で国司職を授与する。良頼が望むのは自分自身の国司叙任ではなかったが、自分自身が先例となることで嫡子光頼の叙任に道を開くことが出来ればきっと良頼も満足するだろう。
「それに……」
廣橋権大納言は続けた。
「猶子として三木家を受け入れた関白近衛前嗣の声望、旧来にも増して高まること疑いなし……」
「悪うない!」
ここまで聞くと前嗣は膝を打った。
この期に及んで前嗣は迷わなかった。飛騨の三木などこれまで自分が猶子として受け入れてきた大名とは比較にならぬほどの微禄であったが、それでも受け取った献金に応じてその願いを聞き届けてやらねばならないと考える侠気がこの公卿にはあったし、なによりも自らの声望を高めることに並々ならぬ意欲を持つ前嗣である。
「飛騨の三木良頼は近衛前嗣の猶子となり、本姓が藤原となった。藤家の者を国司に叙任した例は、枚挙に暇がない」
この理屈を突き付けられた帝は、気がお進みにならないながらも三木家を飛騨国司に叙任することについて、御裁許をお下しあそばすよりほかなかった。




