国司叙任(五)
「猿犬英雄と称す、か……」
「応仁記」にも引かれた「邪馬臺詩」の一節を呻吟するのは、疱瘡が完治したことを示す瘢痕を顔一面に残すあばた面の男。もみあげのあたりから豊かに生える顎髭を敢えて切りそろえず、野武士のような野趣を湛えるあたりは、歴代の足利将軍と大いに趣を異にしていた。
剣聖塚原卜伝の教えを受け、実際野武士も顔負けの剣技を誇るこの男こそ、第十三代将軍足利義輝その人であった。
義輝は飛騨の三木家から頻々ともたらされる献金と、国司叙任の口利きを依頼する書面に目を通しながら、頭書の所感を口にしたものである。
無論、飛騨の三木家の出自を知らぬ義輝ではない。
元をたどれば室町幕府創立の立役者、佐々木道誉に連なる名族京極家に取って代わって、飛騨随一の実力者に登り詰めた三木家は、その任免について幕府が関与しない守護代の一被官人に過ぎない立場であった。それがいま、己が卑しい出自も忘れて金の力にモノを言わせ、国司の職を買おうというのである。不快に思うなという方が無理というものであろう。
しかし目の前に座する老臣、民部大輔上野信孝は言うのだ。
「左様思し召すなら三木家からの献金など最初から受け取らねば良かっただけのこと。金を受け取った後の今になって分不相応である、けしからんなどと言ってみても後の祭りでございますぞ」
これは義輝にとっても耳の痛い話であった。いかさま万年金欠の貧乏公方とあっては、明日の生活のためにも差し出される献金に手を付けないというわけにはいかない。
しかし、それにしても。
「民部の言うとおりよ。しかし民部とて三木から如何ほどか受け取った立場であろうが。したり顔で諫言するでないぞ」
この、将軍の呆れたような物言いに、老臣はにやりと口角を上げてこたえた。
「なにはともあれ、受け取った額に相応しい官職を三木に与えねばなりますまいぞ」
近江朽木から帰洛した将軍一党、就中奉行衆上野信孝に対し、三木良頼が献金を繰り返した事情は前述のとおりである。武家執奏の担い手である官途奉行は摂津氏であったが、摂津氏の関与は官途奏請の実務に限定されるのであって、実際に何者を推挙するかの判断は、幕閣の上層が決定する事柄であった。良頼が、自分が求めるものが分不相応と知っているからこそ、実力者上野信孝に対してさかんに献金を繰り返して口利きを依頼していたのである。そして、信孝は良頼の依頼を受け容れて、義輝に官途奏請を進言したのであった。
「奏請は致そう。しかし帝がお許しになるかどうかは与り知らんぞ」
義輝はなおも不機嫌そうに言う。
献金の多寡にかかわらず、公家は前例のない任官に極端に嫌うものである。即位費二千貫の用途献上にもかかわらず、平清盛にまで遡らねば前例が他にないとして大宰大弐任官を一度は断られた大内義隆の例は先述したとおりだ。これは裏を返していえば、前例さえあれば献金額次第でどんな官位にでも補任され得ることを意味していた。
「その儀であれば、心配には及びません」
何事か既に情報を握っているものか、上野信孝に心配する様子はない。奏請さえすれば国司叙任が果たされることをまるで確信しているようにも見える。その自信ありげな様子が、義輝を更に苛立たせた。
「任せる」
義輝はそうだけ言うと、ぷいと奥へ引っ込んでしまったのであった。




