国司叙任(四)
「良頼は我等を助けてくれるだろうか」
武田の大軍が飛騨信濃国境をかすめて北上していったと聞いたとき、江馬左馬助時盛の心のうちをこのような不安が覆った。聞けば良頼は、武田勢の侵攻に備えて城の防備を固めるとか、具足や或いは近年注目されるようになった鉄炮を買い揃えるといったようなこともせず、ひたすら嫡男光頼の国司叙任を実現するために幕府や朝廷への献金を繰り返しているというではないか。
確かに飛騨信濃の国境にまたがる安房峠の嶮岨は目を瞠るものがあった。
この嶮岨を越えてまで、全国有数の有力大名である甲斐武田家が、今更飛騨のような下々《げげ》の国を平定するとも思われなかったが、それでもどのような思惑が働いて武田家が飛騨に食指を動かすかなど、時盛に制御できる事柄ではないのである。そのことは時盛を不安にさせた。
「三木では細い。頼りにならぬ」
この認識を前提として、江馬氏下館を訪れた弟の麻生野右衛門大夫直盛ともども密かに談合に及ぶ時盛。
武田家による飛騨侵攻が俄に現実性を帯びてきていたころとあって、両名の危機感は強い。
このころ江馬時盛が採るべき選択肢は三つに絞られていた。
一つはこれまでどおり三木家との友誼を重んじ、その方針に従うこと。三木家の方針を江馬家の方針として、飽くまでこれに従うという選択肢である。父時経以来の江馬氏の伝統的政策であるが、その信頼性は良頼が国司叙任に狂奔するなか、大きく揺らいでいた。
いまの三木家には、武具を揃え城を固めて他国の侵攻に備える気概がない。ともすれば早急に国司叙任の沙汰を得て、家名を権威で飾り、自家存続の一助にしようという良頼の汚い肚が、時盛には透けて見えるようであった。
三木家が頼りにならない以上は、本格的な侵攻を受ける前に、いっそのこと武田家の組下に馳せ参じる選択肢も有力なものと考えられた。そうすれば国力では到底敵わない武田の大軍を受けて略奪狼藉の憂き目を見ることはなかろうが、しかし武田家から軍役その他課役を課されることにはなるだろう。武田家が向ける矛先に従って、戦いたくもないいくさに駆り出される苦しみは、いまから約束されたも同然の選択肢といえた。
更にもうひとつが、武田家と激しく争う長尾家に与し、武田による侵攻から守ってもらうという選択肢である。北信を巡って激しく武田と争う長尾家だけに、越中へと抜ける街道を押さえる江馬が武田の劫掠に曝されることを、長尾景虎は嫌うに違いなかった。それだけに真摯に飛騨を防衛しようとするに違いなかったが、かかるいくさに際会して最前線で戦わされるのはやはり江馬に違いないのである。軍役に駆り出されるという意味では、武田に与するのも長尾に与するのも大差ない選択肢であった。
長尾と武田が激しく争っている現下、両属は有り得ない選択肢であった。
「実は甲斐よりこのようなものを届ける者がございました」
麻生野直盛がそう言いながら懐から取り出した巾着。これをひもとくと、中身は目も眩む黄金である。
時盛は瞠目した。
「これは……。これが噂に聞く甲斐の碁石金か」
「左様でございます。甲斐の黒川金山より産する砂金を碁石状に鋳直したものでございます。先日、我が居城を訪れた者は、甲斐の武田信玄公の内意を受けた者であり、もし江馬時盛殿が武田に通じたならば知行を安堵し、手柄次第で加増も思いのままとそれがしに耳打ちしました。
そして懐からこのように巾着を一袋取り出して、時盛殿を武田に転じさせることが出来れば、この巾着を更に三袋ほども差し上げましょうと続けたものにございます」
「碁石金を巾着に三袋……」
飛騨ではまず見ない量の金である。一応白川郷を治める内ヶ島家が、飛騨国内の金山を領してはいたが、それとて飛騨の人々を潤す量ではなかった。金山を領しているとは言い条、内ヶ島家による飛騨一国支配もままならなかったことが、その産出量が限定的だったことを物語っていよう。
目の前に示された金の魔力とでもいうべきであろうか。
自家の繁栄にばかり血道を上げる三木良頼と、碁石金のような目に見える形での利益を示さない長尾家。両者に比べて武田家は、碁石金という目に見える形での利益をはっきりと時盛に示したのである。事ここに至って時盛に迷いはなかった。
「しかしこのことは当面内密であるぞ。わしとそなた以外の誰にも口外してはならぬ。よいな」
時盛は恐い眼をしながら直盛を口止めした。




