国司叙任(三)
朝廷や幕府に献金を繰り返して国司叙任を望む三木家の有り様を、後世の人が見ればどう思うであろうか。
そのような考えが時折、良頼の頭に浮かぶ。
質実剛健を貴ぶ武士の気風を忘れ、似つかわしくない家格を求めた分不相応の家。
そのように嗤うなら嗤え。
後世の人々の評によって我が家の存廃が定まるというのであればそれに従いもしようが、後の世の人々はあれやこれやと結果論でものを言うだけで、当家の存廃について何の責任も負わない立場なのだ。三木家の今後について何の責任も負わぬそういった人々が、自分が死んだ後になって猟官運動を嘲うことを、良頼はもはや気に留めようともしなかった。
いま周囲を見渡せば、飛騨を取り巻く情勢は父直頼が存命中だったわずか三年前(天文二十三年、一五五四)のころとは全くその様相を異にしていた。
より具体的にいうと、三木家と国境を接していた木曾谷が甲斐武田家の侵攻を受け、その幕下に転じたのだ。それだけでなく武田家は、北信安曇郡小谷筋を北上し、小谷城を陥落させたのである。
文字どおり飛騨をかすめた隣国の大軍に、良頼は肝を冷やした。
この武田軍の動きは、弘治三年(一五五七)に行われた、越後を切り崩そうとする大攻勢の一端であった。
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天文二十二年(一五五三)九月に初めて激突してから、甲越の両軍は川中島を巡って角逐を繰り返している情勢であった。私はこのころの川中島を巡る動向が、戦国期の日本史を規定したものと考えている。
後年、武田信玄は大上洛作戦の道中に陣没することになるが、このことについて
「信玄がこの時、本当に上洛するつもりだったかどうか、疑問だ」
とする意見をよく耳にする。
兵站の観点から見ても、当時の軍隊にそのような長征が可能だったとは思えないとする意見である。
しかしながら元亀三年(一五七二)十月から翌年四月にかけて行われた一連の西上作戦の過程で、京都周辺に信玄上洛の噂が流れていたことは紛れもない事実であり、そのことは山城国大山崎離宮八幡宮が、武田家に対して禁制の発給を求めたことでも明らかである。
また武田家自体も、大和国衆岡周防守に対して近々上洛するという意向を伝えており、この文書は現存している。
実際に可能だったかどうかは別として、武田家中においては上洛が既定路線として諒解されていたのであり、京畿諸勢力の間では信玄上洛必至の観測が流れていたのである。離宮八幡宮文書にしても岡周防守宛文書にしても、史料として現存している以上、それは覆しがたい歴史的事実としか言いようがない。
そして信玄が本気で上洛を考えていた以上、物理的にもそれは可能だと判断していたはずである。だからこそ信玄は京畿の各勢力に上洛の意向を伝達しているのである。
ただ東海道西進は、当初信玄が想定していたベストの選択肢ではなく、次善の策ではあっただろう。
そして信玄にとってのベストのルートこそ、北陸道西進ではなかったか。
当代を遡ること四百年前、木曾谷を出発した木曾義仲の軍勢が、越後の平氏方を鎮圧して北陸道を西進し、京洛に達したことは、この時代でも広く知られた事実であった。そしてそのような前例がある以上、武田軍による北陸道西進というルートは夢物語などではなくして、過去の成功例に恵まれた立派な既定路線だったはずである。北陸一向一揆勢との連携も、その文脈で捉えなければなるまい。
つまり北陸道を行くためには越後はどうしても平定しておかなければならない地だったのである。
川中島を巡って武田家と長尾家(後の上杉氏)は激しく争い、現代ではこれを
「川中島の戦いなど、信州北辺をめぐる局地戦に過ぎず、両雄とも川中島如きに固執して国力を浪費し、天下への足掛かりを失った」
と矮小化して評する向きも一部にはあるが、木曾義仲も越後の平氏方城助職を横田河原(つまり川中島)で撃破し、越後平定を果たした上で上洛していることを忘れてはならない。
もし弘治年中から永禄初年ごろにかけて、武田家が越後平定を果たしておれば、その後数年を経ずして武田家の勢力が京畿に至っていただろうとは、木曾義仲の事蹟に照らしても明らかであろう。
同じころ、織田信長は美濃進出どころか依然として尾張統一すら果たしてはいなかったし、徳川家康は今川義元の支配下に組み込まれて独立を果たしてはいなかった。豊臣秀吉に至っては信長配下として尾張統一戦線の一角を走り回る存在でしかなかったころのことである。川中島合戦の帰趨次第では、こういった人々の歴史的役割も随分と違ったものになっていただろう。
その意味からも、川中島の戦いを、単に信州北辺を巡る局地戦とする評は的外れと言わざるを得ない。
そして川中島の戦いといえば、両大将が一騎打ちにもつれ込んだという伝承がある永禄四年(一五六一)の第四次合戦がどうしても想起されるが、この年に行われた第三次合戦における武田家の攻勢こそ、実は最も大規模のものであった。晴信による硬軟使い分けた攻勢を前に、国防の自信を失った長尾景虎(後の上杉謙信)が、一度は越後を捨てて出奔するほどだったのである。
無論良頼は、甲斐の国主武田晴信の上洛にかける野心を知らない。良頼はただ、武田の精兵が自領をかすめていったことに肝を冷やすばかりであった。甲信の強兵を受ければ、飛騨一国を傾けても防備は危うかっただろう。今から人を殖やすというわけにもいかず、城の防備を固めたとしてもその効果は知れている。
(いくら嗤われようが、国司の権威によって身を守るの一助にしなければならない)
良頼の焦りは募るばかりであった。




