国司叙任(二)
その前嗣にとって、朝廷に対してなにくれとなく進物を献上する飛騨の三木家が、遂に三カ所(小島、古川、向)の城塁を攻め落とした行為は思惑どおりといって良い展開であった。前嗣とて何も地方情勢に無知だから、名ばかりの国司に堕していた三カ所を叙任したわけでは断じてない。むしろ地方情勢に通じていたからこそ、三木家を暗に挑発する目的で、敢えて三木家の意向を無視した形で、三木家の組下同然だった三カ御所の人々を叙任したのである。
その上で三木家にくれてやったものといえば、累代の菩提寺である禅昌寺を天下十刹の一に加えるという綸旨一本のみ。
これで怒らぬ武家などあるまい。
そう考えて前嗣は、権大納言廣橋国光と共ににやりと口角を上げたのである。
果たしていま、三木良頼は武力に訴え三カ御所を攻め滅ぼした。飛騨が、真に力ある者の手に収まったのである。
三木家からは相も変わらず頻々と進物が届けられている。
いうまでもなく
「我等に国司叙任の御沙汰を」
という暗示である。
このころ、長く近江朽木に動座していた将軍義輝が一時の小康を得て帰洛していた。久しく失われていた幕府の機能が、京都に復活したのである。
永年の抗争を経たこのころ、幕閣で最も力を持ったのが上野信孝であった。良頼はこの情勢を看破して、さっそく上野信孝に対しても賄賂を送っている。無論、官途授与の働きかけを依頼するためであった。
武家執奏の仕組みは前述したとおりで、武家と朝廷の取次は摂津家が担う役割であったが、奉行衆のうちで最も力を持つ上野信孝の推薦がなければ、話が前に進まない事は誰の目にも明らかであった。
しかし古く上代のころは調庸を免除されるほど貧しかった飛騨のこと、その盟主として諸衆の上に立つ三木家とはいえ、どこから猟官運動に投じることが出来る財を得ていたのかというと、それこそ亡き和州公直頼から授けられた秘策、すなわち塩屋善七を士分として取り立て、その財を利用せよという遺言によるものであった。
良頼は三カ御所を攻撃した弘治年間のいくさに塩屋善七を従軍させていた。物資の運搬等に当たらせる目的の他、その従軍したことを以て手柄と見做し、士分に取り立てる名目を得、他の家中衆の不満を躱すためであった。
合戦の経過は概ね前述のとおりで、新九郎頼一がまずは勲一等といったところで誰にも異論を差し挟む余地はなかっただろうが、塩屋善七となるとそうはいかなかった。なにせ天文十三年の乱のころのような、目立った戦果がない。それでも良頼は、この手柄の薄かった塩屋善七に尾崎城を与え、しかも筑前守と秋貞という名を与え、破格を以て遇している。
これにより塩屋善七は
「塩屋筑前守秋貞」
という一端の侍の名前を名乗るようになるのである。
塩屋筑前守秋貞は、良頼による破格の厚遇の意味を理解していた。その求めるところに従って純然たる商人だったころと変わらず、三木家のために金策に駆けずり回った。しかしそれとて何も、士分に取り立ててくれた良頼に忠節を尽くすためというわけではない。塩屋秋貞にとって、良頼に求められるまま献上する銭貨は、献上品などではなくして債権に他ならなかった。
どうも侍という人種は、その身分が高ければ高いほど、債権とか利息といった概念を正確に理解していなかったのではないかと思われる節がある。
随分と後代の話にはなるけれども、江戸時代の幕藩体制下では、各藩程度の差こそあれ借金まみれだった台所事情は、今日では広く知られた事実である。商人の側でも、好んで大名に金を貸したようだ。
確かに棄捐令や無利子年賦返済令によって債権を喪失するアクシデントに見舞われることもたびたびあったが、藩や武士に金を貸すということは、現代風に言い換えれば地方自治体や公務員に金を貸し出すようなもので、債権者からみれば他と比較しても取りっぱぐれる危険性が遙かに少ない上客として映ったことだろう。
借りる武士の側はといえば、俸禄は相も変わらず現物支給(米)であって、米で物を買うことは出来ないから、米を換金して物に交換しなければならない。ただ、時代が下るにしたがって農耕技術は発達し、石高は上昇の一途をたどる時代だった。米の総量が増えるのでその価格は下がる一方である。同じ一万石でも江戸時代の初期と終期とでは全く価値が異なり、終わりの方では随分と安値で取引されていたはずである。これでは武士は時代が下るにつれて貧乏になるばかりだ。
経済成長に対応するために石直しといって石高を見直すこともあった。これにより家格が上昇する家もあるにはあったが、石直しには検地が必須である。検地は一大事業であってそう何度も実行出来る代物ではない。日々成長する経済との格差を埋めるには、検地は煩雑すぎた。
結局武士は、江戸時代を通じて社会の支配者たる地位にありながら実体経済と収入との格差に終始苦しみ続け、その格差を埋めるべく質素倹約という対症療法で涙ぐましい努力を重ねることになる。しかしそれとて焼け石に水で、特に贅沢をしているわけでもない武士が、ただ生活をしていくというそれだけで、次第に借金まみれになっていくのである。
余談が過ぎたが、猟官運動に血道を上げる良頼には、塩屋からもたらされる金銭の意味が正確には理解できない。
「いずれ返さなければいけないものだ」
漠然とそう考えてはいても、自分が恩顧を施した塩屋が強硬に返済を迫ることはないだろうし、若しそのような挙に及べば士分を剥奪するとでも言って脅して黙らせれば良い。良頼は塩屋からの借金をその程度にしか考えていなかった。
そして幕府が京都に復帰したいま、良頼は光頼の国司叙任を実現するために、幕府と朝廷の双方に対し、献金しなければならなくなったのである。塩屋からの借財は日を追うごとに膨らんでいった。




