三カ御所城塁落去之次第(九)
概ねこのような経過を経て、遂に三カ御所の城塁――古川家は古川蛤城、小島家は小島城、向家は小鷹利城が落去した。良頼が兵を起こしてから一年と三箇月後(弘治二年十一月ころ)が経っていた。
くたびれ果てた軍役衆がぞろぞろと列をなして南へ南へと進む。急いで街道を行かなければ、この山深い飛騨はあっと言う間に雪に埋もれてしまうだろう。くたびれ果てていても足を止めるわけにはいかなかった。冬は、すぐそこに迫っていた。
その軍列の中に乗物(駕籠)二つ。桜洞城へと連行される古川済堯時基父子である。虜囚として敵の本拠地に連行される父子の胸に去来する思いはどんなものだったか。
そもそもこのいくさ、自らが望んで起こしたものではなかった。いやそれどころか、望んだわけでもない叙任の沙汰を思いがけず拝領したがゆえに、三木良頼光頼父子のやっかみを買って挑まれたいくさであった。しかも済堯が古川の家を継承した経緯には、良頼の父直頼も一役買っていたのである。
その自分が今になって三木良頼に滅ぼされるこの不条理。
「古川済堯は蒙った旧恩も忘れて三木家に楯突いた。無用の兵乱を起こし、国内諸衆を苦しめた罪科は許し難く、斬罪に処する」
縄目の辱めを受けた挙げ句、盗っ人猛々しい理屈を突き付けられ斬首を言い渡された済堯は、最期にあたってもはや何者にも遠慮する必要はないと言わんばかりに毒づいた。
「三木良頼。この騙り者め。三木家の旧恩などと申すが、古川を乗っ取らんと欲してみどもを古川家に入れたのはいったいどこの誰であったか」
呼び止められた良頼は
「小島時秀公と聞いておる」
と、上座より済堯を睥睨しながらこたえる。お前の親父殿の差し金よ、と機先を制したのである。しかし済堯は怯まない。
「笑止! 直頼の意向を無視してはそれも成りがたかったではないか。父時秀一人の存念でかなうものか」
と言い返すと、良頼はこれ以上の問答は無用と言わんばかりに、左右の侍に疾く引っ立てるよう合図した。有無を言わさず刑場に引っ立てて、頸を刎ねろというのである。
良頼が問答から逃げたとみるや、連行の侍連中に引っ立てられながらも済堯はなお口角泡を飛ばしながら激しく良頼を詰った。
「無用の兵乱を起こしたのは我等に非ず。三木家であるぞ。我等はただ、朝廷より叙任の沙汰を拝領したのみ。これにやっかんで無用の兵を挙げたのはあれなる良頼ぞ。
見よ、国内諸衆を無用に苦しめた張本人が奥へと逃げてゆく。引っ立てる相手を間違えるな」
あまりに済堯の雑言が過ぎるので、一旦奥へと下がろうとした良頼は怒りの表情で命じた。
「なにをやっているか。さっさと引っ立てて打ち落とした首をわしに見せよ」
侍共は暴れる済堯を力尽くで刑場まで引っ立て、良頼光頼父子に対する呪詛と雑言を最後まで止めなかった済堯の首をやっとの思いで打ち落とした。侍共はその首を首桶に入れた。
「打ち落とした首をわしに見せよ」
という命令どおり、済堯の首を良頼に披露するためであった。
しかし求めた張本人の良頼はといえば、
「打ち落としたのであればそれで良い。実検には及ばぬ。首はそこら辺に打ち捨てよ。雪解けのころには腐り果てているだろう」
とだけ言うと、済堯の首に一瞥もくれることなく再び奥へと下がってしまったのであった。
三カ御所への叙任と禅昌寺十刹綸旨という、良頼にとって到底受け容れがたい朝廷の沙汰を端緒として始まった血生臭い抗争は、ここに一応の収束を見た。この戦い以後、小島家向家共に三木家の組下同様の扱いを受けるようになるわけだが、天文十三年の乱以降十年以上にわたる平和を破ったのは、誰がどう見ても良頼の仕業に映ったことは、大きな痛手であった。
如何に戦国乱世とはいえ、いくさはやはり人々にとって苦しみに他ならず、それでもこぞって大名が合戦に臨んだ所以こそ、国外に打って出ることによって他国の富を奪い、これによって国内の人々を裕福にさせるためであってみれば、良頼光頼父子のように三カ御所に対するやっかみから国内に兵乱を惹起した有り様は、私闘に及んだものと見做されても仕方のない蛮行であった。
飛騨随一の実力者として終生君臨しながら、なお国司簒奪の意図を死ぬまで大っぴらにはしなかった兄直頼のことを思うと、甥の良頼がせっせと朝廷に進物を捧げる姿に、言いようもない不安を覚える新九郎頼一なのであった。




