三カ御所城塁落去之次第(八)
良頼は焦りを隠せないでいた。
一挙に揉み潰すことが出来ると見込んでいた三カ御所城塁攻撃に時日を費やすこと既に一箇年を閲していた。その間、小島時親父子や向貞熙は身辺の安全が保障された京都に逃げ帰っており、しかも朝廷は三木家を挑発するが如く、天文二十四年(一五五五)正月五日付で古川済堯の息子時基を従五位下に叙任している。
苦戦の良頼はこの報せに接して烈火の如く怒ったが、固く城塞に籠もって守りに徹する向、小島両家を相手に、少人数の寄せ手では手こずるばかりで決定的な勝利にはほど遠かった。良頼はしまいには、自分自身が惹起したいくさでありながら泥沼の様相を呈する戦況に嫌気が差して和睦を考え始めていた。
それを聞いて初志貫徹を説いたのは、当初開戦に反対していた新九郎頼一であった。
「叔父上は戦いに反対した立場ではございませんか。今になって和睦に反対なさるとはいったいどういうわけでしょうか」
と良頼が問うと、頼一は
「いまが戦端を開く前というのであれば確かにそれがしはこのようないくさには反対致します。その存念はいまも変わりがありません。しかしいくさは既に始まってしまっており、干戈を交えて久しい。いま戦況を見渡せば、我等が勝ったと喧伝出来るほどの戦果も挙がっており申さず。このような情勢で安易に和睦など申し出れば、三カ御所に足許を見られて当方に不利な和睦を強いられるに違いありません。そうなれば飛騨の三木、威勢衰えたりと諸衆に侮られるは必定。
事実、この合戦には当家と累年誼を交わしている江馬も廣瀬も参戦していないではありませんか。いくさ自体に名分がないことを皆が知っているのです。
斯くの如き名分を欠いたいくさを起こした挙げ句、さしたる戦果も無しに和睦など申し出れば飛騨が更なる騒屑に見舞われることは疑いがありません。苦しくてもこのいくさ、我等の明白な勝利に帰するまでは続けるよりほかございませんぞ」
と、耳の痛いことを言う。
しまいには
「だからこのようないくさは起こすべきではないと申し上げたのです」
と付け加えると、もはや良頼には返す言葉もなかった。
ともあれ小島家、向家共に当主が帰洛した時節、三木家が戦果大なるを国内に喧伝するためには、京都に何の地歩も持たず、未だ古川蛤城に在城する古川済堯時基父子に標的を絞り込むしか道はない。
三木良頼は嫡男光頼以下二百名で古川蛤城を攻め囲んだ。
哀れなのは標的にされた済堯時基父子である。
そもそも当主済堯は、享禄四年(一五三一)、小鳥口に滅んだ名族古川を継承したとは言い条、その出自は姉小路小島時秀末子だった身である。つまり古川家を乗っ取るために亡き済俊公養子などと称して強引に古川家に入ったというのに、当時はその小島家を後援して済堯の古川入りを支援した三木家が、いまはその済堯を滅ぼそうと押し寄せているあたり、このいくさの不条理を象徴してあまりある。
ともあれあの渡部筑前亡き今、仇敵ともいえる小島時秀末子とあっては古川家中になんとしても済堯を支えようという気骨のある家中衆もいまはおらず、済堯時基父子は逐われるように古川蛤城を落ち延びるより他になかった。
当主が去った古川蛤城は包囲の三木家に対し即日降伏を申し出、籠城衆は助命されたが、良頼が求める済堯時基父子の姿は虜囚の中に見当たらず、聞けば実家である小島城を頼って父子共々落ち延びていったというではないか。良頼はさっそく光頼を小島城包囲に差し向け、自身は陥落させた古川蛤城の仕置に取り掛かっていたころ、凶報が入った。
小島城包囲に差し向けた光頼一隊が、強攻めに訴えた挙げ句敗退したというのである。当主時親が帰洛した後だとはいえ、元は守護代の一被官に過ぎなかった三木家に、良いようにいたぶられていた小島家の人々は、いまは古川家を継承していたとはいえ亡き時秀の末子済堯の帰還に接し俄に力を得て、光頼一隊を退けた勢いもそのままに古川蛤城へと押し寄せてきたのだ。
戦勝に驕っていた三木勢が慌てふためく。
「急ぎ城門を閉じよ」
目を白黒させながら良頼が命じると、横から口を差し挟んだのはまたしても叔父の新九郎頼一であった。頼一は城門を閉じるように命じた良頼の横から、侍衆に対して
「ならん。敗退の兵を収容するまでは決して閉じるな」
と大喝する。
兵は当主良頼の命令と、頼一の形相との板挟みになって、どうして良いか分からないといった風情である。
頼一は言った。
「御曹子が入城したとは聞いておりません。その無事も確かめぬまま城門を閉じる道理がどこにございましょうか。それがしが手勢を率いてしばし敵を食い止めますゆえ、門を閉じるのは御曹子の帰城を確認してからになされませ」
良頼は頼一に防戦を任せる以外、手の打ちようがなかった。
頼一は手練の二十騎ほどを引率して大手から打って出ると、大身の鑓を構えながら
「我こそは亡き和州公舎弟新九郎頼一である。斯くの如く老身ではあるが我と思わん者はこの場にて立ち合えい」
と、彼の牛丸又右衛門を屠ったころを髣髴とさせる大音声で呼ばわると、これまでろくに合戦など経験したことがない小島家の人々は、俄に怯えたつ始末だ。
誰一人一騎討ちに応じる者がないとみるや、新九郎頼一は一手を率いて敵陣に打ち掛かると、小島勢は先ほどまでの勢いもどこへやら、ひとりふたりと欠け落ちていく。逃げる光頼一隊を追っていた勢いはいまや全く殺がれ、ついさっきまで追う立場だった者が今は追われる立場に身をやつし、浅ましき様限りなしといった風情である。
この間に敗残の光頼一隊は大手から古川蛤城に駆け込み、御曹子は辛うじて討死を免れたのであった。




