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飛州三木家興亡録  作者: pip-erekiban
第二章 三木良頼の謀略
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三カ御所城塁落去之次第(七)

 その快川和尚と晴信。

 武田氏を巡る情勢を踏まえ、今後の採るべき戦策について意見を交換した後、てられた茶を喫しながら晴信は訊ねた。

「時に飛騨禅昌寺は妙心寺派の寺でございましたな」

「左様でございます」

「昨年来、飛騨が騒屑そうしょうに見舞われておると聞きますが……」

 晴信が言ったとおり、昨年(天文二十四年、十月に弘治改元)八月頃、飛騨では三木良頼が飛騨の諸侍を率いて三カ御所城塁に攻め寄せたが、多勢を恃みに一挙に揉み潰すと目されていた戦況は意外にも長引いて、年が明けた今も終熄する見込みがないという。晴信は、恵林寺と同じ妙心寺派に属する禅昌寺を経由した、飛騨の情勢を求めて問いかけたのである。そしてかかる晴信の質問の意図を理解しない和尚でもない。

 昨年来、功叔こうしゅくや住持仁谷(じんこく)和尚に書状を遣って飛騨の情勢を問い合わせてはいたが、

「間もなく三木の勝利で終わるだろう」

 という返書を得るばかりで実際にそれが果たされる様子がないことは、快川和尚も訝しんでいるところであった。

「未だ三カ御所城塁落居の報せは届いておりません。まさか、三木家が敗北するとも思えませんが、存外に苦戦の模様で」

 と言葉を濁すしかない。

 晴信の目つきが途端に鋭さを帯びる。

「情報収集を怠って何とする」

 そのように叱責されているようにも思う快川和尚である。

「飛騨では三木家先代和州公(直頼)逝去後、三カ御所より叙任の勅使を得たと聞いております。翻って三木家は累年朝廷に進物を献上してきた家。これに対しては禅昌寺の天下十刹入りの綸旨が下されただけで終わりました。此度の合戦、その腹立ち紛れの挙兵とお見受けします。国内諸衆の支持もなく、苦戦の理由はそのあたりにあるのではないかと存じます」

 快川和尚は自分の見立てをこたえるので精一杯だった。

 確たる情報で裏付けられていない見立てなど、たとえ高僧の口から放たれた言葉であっても信ずるに値しないとばかりに席を立つ晴信。

「しばらく寒い日が続きます。風邪など召されぬよう」

 晴信は不機嫌そうに形ばかりの挨拶を口にして恵林寺を出た。

 三門に晴信を見送った快川和尚は、雪のちらつく真冬の候だというのに、全身汗みどろで晴信を見送ったのであった。

 この年、快川和尚は一旦前任寺である美濃国長良崇福寺へと帰り、弘治二年(一五五六)十月廿五日付仁谷和尚宛書状に


貴国騒屑、未属無為之化、御心底推之察之


 と記して、飛騨の戦況を言外に問うている。

 三木家の勝利が疑いない圧倒的な情勢にありながら、三カ御所が意外な粘りを見せていたことに、快川和尚も当惑を隠せないでいたのだろう。そのようなことを感じさせる文面である。

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