三カ御所城塁落去之次第(六)
大勢の侍衆に警固されたその男の形といったら、彼を囲む屈強の侍連中と較べてぱっとしない中背痩身である。並ぶ頭の高さは他の連中とさほど代わり映えのしない中背であったけれども、痩身であるという一点において、男は小柄に見えた。
しかしその男の放つ威風は並大抵のものではなく、容易に近付くことのできる風情では到底ない。
瞳の小さい、神経質そうな三白眼。幾多の戦陣を踏んできたことを思わせる日焼けした顔貌であるが、頬は痩けており諸手を挙げて健康体だと言い切れる様子でもない。烏帽子から覗く毛髪に白髪が多く交じっており、実年齢よりも十も老けて見えるが、これでも働き盛りの生年三十七である。
北信川中島四郡を除き信濃の大半をその掌中に収め、全国有数の大大名に成長していた甲斐武田氏の当主晴信が、恵林寺に赴いたのは弘治二年(一五五六)初頭のことであった。晴信は警固の侍衆の大半を門前に待たせると、数名のみ伴って寺へと入っていった。
そこから更に書院へと進むのは晴信ただひとりである。
対面に座する快川紹喜との間には、あらゆる地物を詳細に描き込んだ日本地図が広がっている。これを挟みながら、晴信は各地各勢力の動静を快川紹喜に訊ねていた。晴信が最も熱心に情報を知りたがったのは北陸方面であった。これは晴信正室三条夫人と本願寺十一世法主顯如光佐に入室予定だった女性が、共に清華家の一、三条公頼卿の娘という縁を見込んでのことであった。
この時代、教線拡大の著しかった本願寺勢力と、各地の武家が争った事情は先述のとおりである。今川家から独立して間がなかった徳川家では、一向宗門徒としても名を連ねる家中衆との間で文字どおり家を二分した争乱が起こっているほどだ(三河一向一揆)。
武田晴信はしかし、一向宗門徒との無用の軋轢を好まず、むしろ互いの正室が実の姉妹であるという縁故を利用した友好関係を模索していたのである。これはいうまでもなく、武田晴信が、ゆくゆくは北陸道を経由した上洛を企図していたからに他ならない。
ただ、その晴信の目の前に座っているのは臨済宗寺僧快川紹喜であった。これから晴信が手を組もうとしている一向宗とは、言葉は悪いが商売敵ともいえる間柄である。
大名への情報提供など片手間の仕事、ほんらいの目的が臨済宗妙心寺派勢力の維持拡大であってみれば、一向宗と手を組もうという晴信の目論見を手助けする行為は、商売敵を育てるが如きものだ。
しかしだからといって
「一向宗と手を組もうという武家に情報提供するわけにはいかない。お断り申す」
などと言ってみても、
「加えてきた庇護に応じた働きはしてもらおう」
と返されるのがオチである。
天文十六年(一五四七)六月に定められた「分国中仕置五十五箇条事」(所謂「甲州法度之次第」。後、天文二十三年五月に二箇条を加え、五十七箇条となる)の二十二箇条目には
一、浄土宗、日蓮党と、分国において、法論あるべからず。若し取り持つ人あらば、師檀共に罪科に処すべし
と定められているとおり、武田分国において禁じられているのは飽くまで浄土宗と日蓮宗の法論のみであり、あまつさえ人が何の宗派に属するかといったところまで禁じるものではなかった。臨済宗も一向宗も、武田分国内では建前上同列という扱いである。これは晴信の方に理がある。
臨済宗妙心寺派の重鎮たる自分に対して一向宗との同盟の意図をあけすけに語る晴信の図々しさ。
快川和尚は、見たままの神経質なだけではない晴信の将器を見込んで、協力を惜しまなくなっていた。後年、晴信が病没し、その子勝頼の代に至って甲斐武田氏は織田信長に滅ぼされることになるのだが、快川和尚は恵林寺に乱入した織田勢に命乞いするようなこともなく、山門に放たれた業火の中、
「心頭滅却すれば火、自ずから涼し」
の偈を遺し、武田家への忠節を貫いて示寂することになる。




