三カ御所城塁落去之次第(二)
「飛騨の三木の様子はどないでしたか」
関白近衛前嗣は、帰国した十も年長の権大納言に訊ねると、廣橋国光は年下の上司に対して
「色をなして詰問してくるようなこともなく、ただただ困惑したような様子でしたなあ。せやけどああいう手合いは、あとから怒りがこみ上げてくるもんとお見受けします。この後どないなるやら、楽しみですなあ」
とにんまりしながらこたえた。
この戦国乱世、朝廷は衰微甚だしく、貴族達は古い権威にすがって何とか細々《ぼそ》生き存えているに過ぎない存在だったと思われがちであるが、彼等は何も、ただ手を拱いて過ぎゆく日々を無為に暮らしていたものではなかった。
各公家は洛中での生活が逼迫すると、財力の豊かな地方の有力大名の許に寄寓した。受け容れる側の大名はこれを拒否せず、むしろ栄誉と考えて礼遇した。これを公家の在国という。公家は在国と在京を繰り返して苦しい家計をやりくりしてきたのである。
そして在国期間中、貴族達は何も、食っちゃ寝して過ごしていたわけではなかった。その主目的が小遣い稼ぎであってみれば、寄寓先の大名のために一肌脱いで、直奏を禁じる朝廷の一員でありながら官途授与のために朝廷との間を周旋してみたり、和歌の奥義を伝授するなどと称して礼銭を求めるなど、なかなか強かな生き様を見せている。
こういった地方在国には、中央にいては知り得ない地方情勢を知り得るという作用があった。在国の公家は寄寓先大名を取り巻く情勢を敏感に嗅ぎ取って、その求めるところを看破し、官途授与を働きかけたりしていたのである。
こういった老獪な貴族連中の、しかもその頭目たる立場に立つ関白近衛前嗣にとって、人生経験では遙かに上をいくとはいえ、飛騨という小国の田舎侍に過ぎない三木良頼が、連年朝廷に進物を献上してまで求めるものがいったいなんであるかなど、掌を指すより明白であった。
即ち飛騨国司の職。
良頼あたりは、三カ御所など三木家の意向ひとつで存廃の定まる弱小貴族に過ぎないと考えていたが、三カ御所は三カ御所で、三木家の動向を冷徹な目で見極めていたのである。その分析は、ことあるごとに朝廷にもたらされていた。
良頼嫡男光頼の母は、古川済俊遺児英子であること。
その英子を一度向家に移籍して、然る後に良頼の正室としたこと。
英子を正室として迎えるにあたり、従来の良頼婚約者であった江馬時経娘月姫が、毒殺された形跡があること。
三木家より朝廷に対し、ことあるごとに礼物が進上されていること。
こういった事情を勘案すれば、良頼が、自分自身は兎も角、嫡男光頼の国司叙任を望んでいることは、もはや近衛前嗣にとっては明白な事実であるといえた。
飛騨への勅使下向と聞いても良頼はさぞ期待したことであろう。
「すわ、我が子光頼がいよいよ国司叙任か」
良頼はそう考えたに違いなかった。それを知った上で前嗣は、良頼の敢えて内意を無視して三カ御所に官途を授与したのだ。もし良頼が何か抗議めいたことを言ってきたとしても、
「武家執奏がなされたわけでもなく、三木家を国司などに叙任する謂われがない。ところで連年の進物献上殊勝である。禅昌寺を天下十刹に加える」
とでも返して、煙に巻くつもりであった。




