相次いで墜ちる将星(八)
直頼は次いで、嫡孫岩鶴を呼び寄せた。
「良いか岩鶴。そなたの母英子は飛騨国司姉小路古川済俊公の娘御。そして姉小路向家に一度籍を置いた身。そなたには古川の血が確かに流れ、名を向家に遺している身である。国司たる資格を十分に備えておる。叙任の手続きはそなたの父に任せておけば良い。我が三木家は、そなたの代に至って初めて、名実共に飛騨の国主となることが出来よう。しかしそうなっても油断は禁物であるぞ。
岩鶴。一つ問う。我が三木家が竹原郷の一土豪から起って、斯くも強勢を誇り得たのは何故と考えるか」
問われた岩鶴はその姿勢を正してこたえた。
「一族相和して反目しあうことがなかったからです」
「そのとおり。噂に違わぬ賢い子だ。国司叙任を得たからといって一族間で争っては何にもならぬ。三カ御所の衰退がそのことを物語っている。ゆめゆめ忘れるでないぞ」
「はい」
岩鶴のこたえを聞いた直頼が安心したように目を閉じると、その目が開かれることは二度となかった。
時に天文二十三年(一五五四)六月十四日。享年五十七であった。
良頼が亡父のために詠んだ和歌
シラジタダ 心ノ外ニ消エテ行ク
ナゴリノナドカ 世ニトマルラム
と、禅昌寺殿前和州太守徳翁宗功大居士の法号を贈られた直頼位牌が、和州公直頼の遺徳を現代に伝えている。
* * *
飛騨三木家は、直頼の先代重頼のころには既に飛騨随一の有力豪族といえる立場にあったらしいが、実は三木重頼についてはその実名すら確実な史料では明らかではなく、その死の五年後(享禄五年、一五三二)に、圓通寺住職明叔和尚(後の禅昌寺開山)が唱えた偈
軍前執柄国家全、身後功名今古伝、魏紫姚紅没交渉、一門桃李耀春天
によって、重頼の代には三木家が飛騨国内で「国家全」と評されるほどの強勢を誇っていたことが、微かながら知られる程度である。
これより以前の三木家関係史料となると、文明三年(一四七一)まで遡らなければならない。
京都で応仁・文明の大乱が行われていたころ、飛騨では姉小路古川基綱と飛騨守護職京極氏の現地被官人三木某との間で合戦が行われていた。中央の大乱が地方に波及したものであろうか。
この戦いで三木某が討死したことが、基綱宛斎藤妙椿書状
去七日依三木討死仕候、自京極殿、節々出陣事承候
によって知られる。
討死した三木某は年代的にいうと、重頼の祖父か、或いはその世代に属する人物である。
直頼の代に至って三木家に圧倒される古川も、このころは守護代の被官人に過ぎぬ三木某を敗死に追い込んだのであり、飛騨国内における各勢力が拮抗状態にあったことが自ずと想起されよう。
このように三木家は直頼の曾祖父或いは少なくとも父の代から紆余曲折を経ながらも着々と地力を蓄えてきたのであり、直頼はその遺産によってはじめて飛騨に大きく雄飛し得たのであった。
三木家にとっての雄飛の時代は、同時に戦国の世の節目でもあった。特に天文十三年の乱(一五四四)以降、直頼が死没するまでの十年間の動乱は甚だしいものがあった。
この間、飛騨が大きな戦乱に見舞われることは一度としてなく、国内をまとめた三木家が飛騨一国を傾けて他国を切り取るチャンスでもあったが、直頼は他国に向けて侵略の兵を差し向けることが遂になかった。
隣接する美濃は守護土岐氏が急速に力を失い、斎藤利政(道三)も支配権を依然確立できない中、三木家が曾て出兵したことがある東濃や郡上方面に勢力を拡幅することも不可能ではない情勢が長く続いたが、直頼は他国に覇を唱えることをせず国内政治に専心している。
確かに郡上方面への進出は、永年三木家と友好関係を保ってきた本願寺勢力との関係を悪化させる恐れがあったし、東濃への進出は当時信濃方面に拡大著しかった甲斐武田氏との軋轢を生じさせる恐れがあった。
また、いずれ出現するであろう美濃の本格的支配者との今後の関係を考えると、切り従えることが可能だからといってむやみに美濃に打って出ることも憚られたのもまた事実であろう。後年、織田信長が岐阜を足掛かりに天下への展望を開いたことを考えれば、そのような慎重な判断が働いたとしてもおかしくはない。
直頼の死後、三木家関係史料からは遠藤氏や久々利氏、木曾氏といった地方豪族の名が消え、代わって甲斐武田氏や越後長尾氏等の大国が頻出するようになる。直頼の願いに相違して、飛騨は列強の影響力と無縁ではいられない小国の悲哀を舐め尽くすことになるのである。
直頼はそういった飛騨の運命を知らずに逝った。今後飛騨を襲うことになる大国の脅威を知らずに逝ったことは、他の誰よりも飛騨一国一味平均を願い、これに邁進した直頼にとっては幸運だったといえよう。
第一章「三木直頼の雄飛」 (完)




