相次いで墜ちる将星(七)
右兵衛尉良頼が国内で重きをなしていくのと反比例するかのように、直頼の身体は病魔のために蝕まれ、痩せ細っていった。
天文二十三年(一五五四)も六月ごろともなると、直頼は滅多に身体を起こすこともなくなり、一日のほとんどを病臥して過ごすようになった。直頼の間近に死が迫っていることは、誰の目にも明らかであった。
何とか父の存命中に岩鶴の国司叙任を。
それが良頼の願いであった。父は既に死病の床に就いており、余命は幾許も残されてはいまい。その父に、岩鶴の国司叙任を伝えることが出来れば、これ以上の孝行はあるまいと考えられたからであった。
しかし取次の者を何度か将軍動座の地である近江朽木に派遣し、幕閣との面談を重ねさせたが、次第に分かってきたことといえば、それが存外に難しいことらしいという事実であった。
というのはこのころ京都では、三好長慶と細川晴元を主軸とする対立が続いており、将軍側近である奉行衆の内部ですら、いずれを支持するかで分裂が生じている、まさに渾沌とした情勢だったからである。将軍不在京の状況が、その間の混乱を如実に物語っていよう。
要するに公儀への顔つなぎは良いが、では奉行衆のうちのいったい何者と結ぶのが最良の選択なのか。それがどうにも判別つきづらい状況だったわけだ。より具体的にいうと、親細川晴元派の上野信孝を選ぶのか、それとも親三好長慶派の伊勢貞孝を選ぶのか、という二者択一だ。この選択を誤ると、後の交渉に重大な影響を及ぼしかねない。
それでは直奏に及んではどうかという意見も三木家中にはあったが、前述のとおり京畿の政情は不安定であり、大量の進物を抱えて往来できるような治安状況では到底なかった。それでも良頼は将来への布石として、細々《ほそぼそ》ではあるが朝廷に太刀や馬などの進物を献上し続けている。
なので、国司名跡簒奪に向けて逡巡することを止めた良頼ではあったが、逡巡しようがしまいが、このようなことを続けておれば国司叙任などいつの話になるか知れたものではないと焦る良頼の元に
「大殿がいよいよ危うい」
という報せが届いたとき、良頼は深く嘆息して
「間に合わなんだか……」
と呻吟せざるを得なかった。
「……よく、夢を見る」
直頼が虚ろな目を良頼に向けながら言った。
「渡部筑前、牛丸与十郎、そして月姫……」
これまで武によって打ち倒し、或いは詐術を用いて弑虐してきた人々の霊に、直頼は苦しめられているものか。
「余は飛騨一国一味平均してからというもの、国内社寺の造営に取り組んだ。これはひとえに、余がこれまで殺してきた幾多の人々の霊を慰め、御仏に救いを請うためであった。
良頼に問う。
もし我等三木家が飛騨一国の平均を成し遂げなければ、今ごろこの国はどうなっていたか」
良頼が父の枕許ににじり寄ってこたえる。
「我が飛騨は貧しい国です。何者かがこの国を統べなければ、国内で人々が相争う間隙を衝いて、越後か美濃かは存じませぬが他国が押し寄せてきたことでしょう。飛騨の人々は軍役その他課役を課され、貧窮し、塗炭の苦しみを味わったものと推察します。そうならなかったのはひとえに、我等三木家が強勢を誇ったがゆえ。
戦乱に死んでいった人々の犠牲は無駄ではございませんでした。そのように御自身を苛むものではございません」
「いかさま、そなたの申すとおり、我等が飛騨平均を成し遂げねばこの国が他国に併呑されていたことは疑いがない。しかし死んでいった人々にはこの世の煩いごとなど関係ないものと見える。それが証拠に、飛騨平均を成し遂げた余を、彼等は激しく苛んで許す気配がない。見よ」
そう言って、直頼が両の掌を良頼に示す。
血色悪く、痩せてすっかり薄くなった掌だが、それだけだ。
その掌を良頼に示しながら直頼は続けた。
「そなたには何の変哲もない父の掌に見えようが、余には見える。刻まれた手相から滲み出る血が。余がこれまで殺してきた人々の、怨みの籠もった血が滲み出る様が見えるのだ」
「お気を確かに 」
「確かである。
良頼にしかと申し付ける。余は間もなく死ぬが、我が嫡孫岩鶴の国司叙任に向け引き続き努力せよ。それこそが間もなく地獄に堕ちるであろう余に対する、せめてもの慰めと心得よ」
「地獄に堕ちるなどと……」
良頼が思わず言うと、直頼はその言葉を遮って
「分かったか」
と念を押した。
良頼は
「心得ました」
とこたえるよりほかになかった。




