相次いで墜ちる将星(三)
(殿も父も、今日という日を待つことが出来ておれば或いは……)
岩ヶ平城の河上中務丞富信は江馬左馬助時経死去の報に接し、二年前の兵火を思ってそう考えざるを得なかった。
二年前の天文十三年(一五四四)、富信の旧主常陸守時貞は、廣瀬左近将監が病没したその一事を好機と捉えて挙兵した。その際富信の父重富が
「廣瀬左近将監如きの死は到底好機とはいいがたい。好機というからにはせめて左馬助時経が死ぬのを待たねばなるまい。そして放っておけば間もなく時経は死ぬであろう」
というようなことを言って、必死に挙兵を押し止めようとしていたことも同時に思い出した富信である。
もし、時貞と父重富が今日という日まで待つことが出来たならば、或いは戦いは自分達の勝利に帰したかもしれぬというなんともいえぬ虚無感が、富信の胸中を去来する。
(何を考えているのだ俺は。俺だって最初は時貞様と共に起つことを望んでいたではないか)
廣瀬左近将監の死を、父重富同様重視しなかった富信も、主君時貞の挙兵に賭けて我が身を戦場に投じる肚ではなかったか。自分が命を永らえ得たのは、父の機転によるものでしかない。その自分が、江馬左馬助時経が死んだという今になって後付けのように時貞の決断をあれこれ批判するというのは筋が違う話であった。富信はそのことに思い至ったのだ。
いま、自分達に出来ることといえばなんだ。少なくとも当主江馬左馬助時経の死に接して、過去の出来事をああでもない、こうでもないと後悔することではない。
「菊丸殿はおわすか」
突然、思い出したかのように大声で呼ばわる富信。
三歳の菊丸が、その姿を恐れて柱の陰に身を隠す。富信はその姿を見つけるや
「そのようなところにこそこそ隠れて、なにをしておいでか!」
と大喝すると、三歳児の首根っこを掴んで鞠のように岩ヶ平城中庭にその身を放り投げた。
火がついたように泣き叫ぶ菊丸。
「やかましい泣くな菊丸! さあ稽古だ。これなる脇差で突き掛かってこい!」
そう言って自身の脇差を幼子に握らせる富信。菊丸は富信に促されるまま脇差を構え、言葉にならぬ叫び声と共に突き掛かる。その手を富信が弾くと、菊丸が握る脇差ははね飛ばされ、ぽとりと落ちた。
「得物を手放すやつがあるか!」
富信は大喝し、三歳児の頬を平手で思い切り打擲すると、幼子は一間(約一・八メートル)ほども吹っ飛ばされた。
「さあもう一丁!」
更に突き掛かってくるように促す富信。
菊丸は何度張り飛ばされたか分からない。両頬を真っ赤に腫らし、もはや疲れ果てて肩で息を吐くばかりになっている。そんな菊丸を揺さぶりながら富信は言うのだ。
「強くなれ、菊丸!」
復讐の念に燃えるその声は、猛獣の咆哮のように、不気味に山々にこだましたのであった。
左馬助時経死去の報は、当時桜洞城に在城していた大和守直頼のもとにも即日もたらされた。
「遂に逝かれたか」
直頼はそう言ったきり、しばらく瞑目した。
思えば時経とは、江馬氏下館の焼け跡に出会ってから三十年の長きにわたって手を携えてきた直頼である。この間、三木家は急成長を遂げて飛騨を代表する勢力にのし上がったが、それも江馬氏との同盟がなければかなうものではなかっただろう。盟約の更なる強化を目論んで良頼と月姫との縁談を望んだ時経であったが、直頼は江馬の姫と古川英子を天秤にかけ、結局は英子を選んだ経緯があった。
直頼は良頼と月姫の縁談を御破算にするため、鴆毒を以て月姫を殺害するという非常手段に訴えた。当時十五歳だった娘に先立たれた時経の心痛は、下手人たる直頼ですら気の毒に思えるほど痛々しいものであり、しかも直頼による毒殺など微塵も疑わず、時経は三木家との盟約を終生重視し続けたものであった。
自家の栄耀栄華のためとはいえ十五の姫を毒殺した負い目のあった直頼は、飽くまで三木家との盟約を重視する時経の赤心に報いるべく、血縁を欠いた当時としては珍しい同盟関係を継続し続けてきたのである。
直頼はこれまでの時経との交わりを思い出しながら、この日、冥界に向けて旅立った時経の旅の無事を祈りつつ、合掌したのであった。
* * *
同年十月、直頼は天文十三年の乱で焼け落ちた袈裟山千光寺を再建している。
前掲の千光寺梵鐘銘には時経の慰霊を思わせる文言はないが、私にはこの機に当たって直頼が千光寺を再建した意図に、やはり時経の霊を慰める意図があったのではないかと思われてならないのである。
三木家と江馬家の同盟関係は、作中にもあるようにもはや対等とはいえなくなるほど三木家優位に傾いており、それは天文九年(一五四〇)の東濃出兵の時には既に明白になっていた。三木新九郎が東濃の三城を陥れたのは、美濃守護職土岐氏から三木家に対し、大桑城へ出頭するよう要請があった道中での出来事だったことを思い出していただきたい。
つまり三木家ですら東濃に領土を拡幅しようという野心を持って自ら積極的に起こしたわけではないいくさに、その三木家からの要請に従って江馬氏等が兵を差し出さざるを得なかったのが、当時の飛騨の情勢だったのである。両家の間には既に、天文九年時点で覆しがたい力の差があったと断ずべきであろう。このことは先学の多くも指摘されてきたとおりである。
しかしだからといって直頼が、時経との盟約を軽んじてこれを滅ぼすべき兵を動かさなかったこともまた事実なのであり、一時は実現寸前のところまで縁談を進めていただけあって、実質上は兎も角、三木家と江馬家は、名目上は対等の関係を意識し続けたものと断じたい。




