天文十三年の乱(九)
享禄四年(一五三一)以来、十三年ぶりに飛騨国内を戦場とした兵乱を三木家勝利のうちに終えた直頼。さっそく三枝城で各将各方面より祝賀を受けていた。
家中を代表し率先して祝賀したのは嫡男右兵衛尉良頼であった。
「この度は御戦勝おめでとうございます」
と型どおりの祝辞を陳べる良頼に、直頼は言った。
「うむ。この度の戦役に際して汝が鍋山を打って出た策、見事であったぞ」
直頼は堅く鍋山城に籠もれとした直頼自身の下知を無視し、良頼が果敢にも打って出て、荷駄を奪おうという時貞を背後から痛打した戦いを激賞した。これには良頼も面はゆく感じたものか、
「いや実は、父上の下知を無視して打って出て良いやら逡巡しておりましたところ、侍は戦うべき時には戦うものだとそれがしを叱咤し出陣を勧めたのは叔父頼一殿でございます。叔父上の御言葉に従ってなければ今ごろどうなっておったか……」
と照れ隠しのように言うと、新九郎頼一は
「これっ、良頼殿。そのようなことは黙っておけば良いのです。そうすれば御父上からの賞賛を一身に浴びることも出来ましたものを」
と呆れたように言った。すると三佛寺城から打って出て、逃げる時貞一行を側撃した新左衛門尉直弘が
「いやこれは。蛮勇を誇るばかりだった我等が末弟新九郎も、人の子に侍としての身の振り方を説くまでに成長したか。見事一廉の将に育ったものよ」
と今度は頼一を賞賛する。
「兄上、蛮勇は余計でござる」
困ったような顔をして頼一が言うと、一座がどっと笑いに包まれた。
「ところで父上」
一転、真面目そのものの表情を固めて、良頼が上座の直頼に向き直る。
「木曾路の一戦におきまして、手柄を挙げた者がありましたのでこの際披露申し上げたいと存じます」
「うむ、申せ」
「この者は越中国商人塩屋善右衛門の長男にして荷駄隊の引率者を買って出た塩屋善七と申す者。荷駄を守り通しただけでなく、商人の身分でありながら手ずから鑓を取り、敵の武者を数騎討ち取ったものにございます。特段の褒美をこの者に賜りとう存じます」
そう聞くと直頼は瞠目し、
「なんと、あの塩屋善右衛門の子がそれほどの武勇を発揮したか。
よかろう。塩屋には越中の他に、大野郡は尾崎に店子を与え、善七をその店主に据えることを約束する。善右衛門もきっと喜ぶであろう」
と言った。
侍にとっては加増が褒美であり、商人にとっては支店の展開が褒美となる。越後の蔵田に押されて越中の店舗を細々《ほそぼそ》と営業するだけだった塩屋善右衛門にとって、飛騨という僻地とはいえ当地を治める三木家の許可のもと、支店を展開出来るということは大きな飛躍に違いなかった。
満座が戦勝に酔うなか、一人愉しまぬ表情の者がある。誰かと思えば江馬時盛である。
「江馬殿、左様に気落ちなさるものではない」
直頼は時盛を気遣って声を掛けた。
今回の兵乱は江馬家をその発火点としていた。江馬左馬助時経と嫡男時盛には、麾下の将兵が謀叛を企てていることを事前に察知できず、みすみす挙兵を許してしまった過失があった。直頼は時盛がそのことを気に病んで、愉しんでいないのだと気遣ったのである。加えて本来であればこの場に顔を出して直頼と共に戦勝の祝賀を受けるべき左馬助時経が出席していない事情も、直頼は知っていた。近年体調が優れず病臥することが増えて、何かにつけ時盛を名代として派遣してくることが増えたのだ。父時経が病がちであるということも、時盛がこの場にて愉しんでいない原因ではないかと直頼は気遣った。
なので直頼は
「戦乱は兵家の常でござる。此度も両家が手を取り合って叛逆者を見事討ち果たしたのだ。何を気落ちなさることがあろう。
滅多なことはいえぬが、御父上の御身辺に万一のことがあっても我が三木家は飽くまで江馬家と共に手を携えていく所存」
と言うと共に、良頼やその他一族に対しては
「余も既に五十の手前に達した。前々の如く全身に力が漲るということが近年稀である。余の身に万一のことあらば、皆も江馬殿を頼みとせよ」
と言った。
この言葉にひれ伏す時盛と三木家一同。
しかし頭を下げながら、時盛だけは他と少し違うことを考えていた。
この度の兵乱に際して良いように名をなさしめた三木家を今後如何にして出し抜くか。
時盛の脳裡にこのような考えがこびりついて離れない。
時盛は面従しながら、自らの考えをおくびにも出さなかった。




