天文十三年の乱(七)
三佛寺城の新左衛門尉直弘も、鍋山城の新九郎頼一、右兵衛尉良頼も、夜半、城下の街道を通過した時貞重富主従を発見することが出来なかった。この際、引率する兵が少ないということは、敵に発見されがたいという一点においてのみ謀叛勢に有利に働いた。
さてこのころ、大和守直頼から至急米を届けるように督促されていた塩屋善右衛門は、荷駄の警固に五十騎そこそこの飛騨侍を要求し、長男善七をその案内役に付して木曾路を急いでいた。その善七の目に、街道を向かい側からやってくる一団が映る。
「御味方の出迎えでしょうか」
善七は呑気に言ったが、警固の飛騨侍は皆、俄に緊張して手に得物を構える。ある侍は善七に対して
「迎えを寄越されるとは聞いておらん。思うに敵兵であろう。油断するな」
と警句を発した。
こちらに向かってくる一団が敵だと知ったからとて、取り乱す善七ではない。この時代、商売をする者にとっては荷駄の奪取事案は日常茶飯事であった。奪取を試みてくる相手は侍に限らず百姓ということもザラにあった。
日本国中に住まうあらゆる階層の人々が武装している時代であった。
商人とて例外ではなく、さっそく護身用の鑓を構える善七。敵勢はといえば名乗りも挙げずただ真っ直ぐこちらに突っ掛かってくる。
こうなっては陣立ても何もあったものではない。双方ただ膂力に任せて干戈を交えるだけだ。そこかしこに悲鳴や荒い息づかい、断末魔の叫びが入り交じり、たちまち死闘が繰り広げられ始めた。
敵味方入り乱れる混戦の中から一騎、荷駄に向かって飛び出してくる。騎上に鑓を構え一途に荷駄を狙うその鑓先が米俵にぶすりと刺さり、敵方の騎馬侍は突き刺した鑓先で俵をほじくり返すと米がさらさらとこぼれ落ちた。
善七は、やっ、と鑓を突き出して騎馬侍の脇腹のあたりを突いた。騎馬侍はたまらず落馬した。善七がとどめを刺そうとするが、混戦の中から荷駄めがけて突出してくる敵の騎馬侍が引きも切らず出現してくるのでその対応に手一杯だ。侍ほどには武道を心得ない善七が、このときばかりは数騎の騎馬侍を討ち取り得たのは、彼等が皆押し並べて荷駄を傷つけることにこだわったからであった。荷駄に気を取られるあまり善七への対応が疎かとなり、手もなく討ち取られたものであった。
善七は荷駄を守るべく奮戦したが、それでも相当量の米が失われた。
鍋山城に一騎、駆け込んで来た騎馬武者がある。木曾路を行く荷駄の警固部隊の一人であった。
「荷駄隊が現在敵襲を受けております。援軍を派遣願います」
ということであった。
注進を得た右兵衛尉良頼は叔父頼一と協議した。
頼一は
「良頼殿は荷駄の救助に向かわれよ。それがしは小八賀に陣取る敵本陣を衝きますゆえ」
というと、良頼は
「しかし三佛寺城の直弘殿を後方から支援するために鍋山に籠もれとは父上の御諚。その許しも得ず勝手に城を出て良いものか」
と逡巡すると、頼一は
「よろしいか良頼殿。木曾街道を行く荷駄は我等の死命を決するもの。これが敵方に襲撃されているのを指を咥えて看過するは自ら好んで滅びの道を歩むと同じ。侍たる者の行いとは到底いえません。侍は戦うべき時には戦うものです。これは主命に先立ってある我等侍の宿命というべきものでござる。そしていまがその戦うべき時です」
と説くと、これには良頼も納得して敵を求めるべく鍋山城を東に向けて発向し、頼一は北へと打って出たのであった。
敵の荷駄隊を妨害すべく小八賀の本陣を捨てた時貞にとって、刻々と失われていく時間こそ難敵であった。荷駄の警固部隊は頑強に抵抗して容易にこれを抜くことが出来ない。気が付けば夜が白みがかっている。
「殿、お退きあそばせ」
という重富の言葉を待つまでもなく時貞は荷駄の襲撃を諦め、小八賀の本陣に撤退しなければならなくなっていた。
このまま漫然と戦い続けて時間を失えば、鍋山城か三佛寺城に籠もる三木勢に挟撃されかねない。
「退けッ!」
江馬勢は時貞の下知に従って街道を遡行していく。
潮が引くように退いていく敵兵を見送りながら、全身汗みどろの塩屋善七がその場にどっかりとへたり込んだ。その身体を、安堵と疲労が包み込んでいた。
小八賀の敵本陣を衝くべく北上する頼一の目に、敵の旌旗と本陣の所在を示す篝火が見える。しかしひと目見て頼一はその陣が空虚であることを見抜いた。
陣に踏み込むと、頼一の見立てどおり、そこは既にもぬけのからであった。
旌旗は紙旗ばかりで陣幕の中に人っ子独り居はしない。頼一は敵が捨てた本陣に入ると、さっそく三佛寺城に籠もる兄新左衛門尉直弘に使者を派遣した。
「敵部隊が街道を西進してくるでしょうから、兄上は即座に城から打って出られるように御準備なされよ」
という手筈を伝えるためであった。
僅か十数騎にまで減じた味方を率いながら、街道を西へと落ちていく時貞一行。永年の復讐の野望はここに潰えたといって良い。
しかし不思議なことに、時貞には一片の悔いもなかった。というのは、この度の挙兵に際して時貞は、何一つ疎かにしなかったという自負があったからだ。重富に張り飛ばされ、何度も何度も地面に這いつくばったあの日も、怨敵時経の下知に従って東濃に初陣を飾った忍従の日々も、全てにおいて疎かにすることなく全力を尽くし、そして挙兵して後も、ありとあらゆる局面で自分の考え得る最善の手を尽くした自負が時貞にはあった。




