天文十三年の乱(六)
直頼が危惧したとおり、時貞勢は袈裟山千光寺に放火した。
千光寺は仁徳帝六十五年(伝三七七年)に両面宿儺が開山したという真言の寺である。
両面宿儺といえば日本書紀に
飛騨に一人有り、宿儺と曰う、其の人と為り壱体にして両の面有り、面各相背けり、項合ひて項無し、各手足有り、その膝有りて膕踵無し、力多くして軽捷し、左右に剣を佩いて四の手並に弓矢を用ふ(後略)
と形容された異形の鬼神である。これを千光寺の開基とするには相当の検討が必要であるが、寺の梵鐘に刻まれた銘文には
厥飛州袈裟山千光寺、因禍乱、堂塔諸伽藍、悉焔滅□歎之余、国主三木直頼朝臣大和守建立之来、其志為菩薩成、願主謹奉鋳鐘、令寄進之者也
天文十五年丙午小春日(後略)
(□部は判読不能文字)
とあって、天文十五年より以前に一度焼失したことは明らかである。この天文十三年の兵乱で焼け落ちたと考えても矛盾はあるまい。
袈裟山千光寺に火を掛け焼き払った江馬常陸守時貞率いる謀叛勢は向かうところ敵無しという情勢であった。
とかく直頼を弱らせたのが、越中方面から流入する米が途絶したことであった。一応備蓄の米もあるにはあるが、それだけで長く戦えるものでもない。
悪いことに謀叛勢は、流入する米を独占し、諸衆に対してこれを分配して、国内唯一の食糧供給者として君臨しようとしていた。ただ、謀叛勢とて所詮は飛騨の、しかも荒城郡という限られた一郡の人々をようやく束ねるだけである。兵の絶対数が乏しく、国境の全てを封鎖するというわけにはいかないだろう。
直頼は鍋山城に籠もる良頼に使者を派遣した。
「木曾谷経由で塩屋善右衛門に連絡し、有峰の峠を避けて米を飛騨に届けること。金に糸目は付けぬと伝えよ」
この指令を伝えるためであった。
直頼から具足の発注を受けて以来頻繁に飛騨に出入りするようになっただけあって、越中有峰の峠が物々しい侍連中によって急遽封鎖された出来事は、塩屋善右衛門をして
「飛騨に兵乱が起こったらしい」
と思わせるに十分であった。
飛騨国中との取引が途絶えて久しいその塩屋善右衛門のもとに、直頼からの使者が駆け込んできたのはその年の五月のことであった。善右衛門が三木家使者に対して飛騨の情勢を訊ねたところ、善右衛門が危惧したとおり、荒城郡高原殿村を中心に乱れに乱れているということであった。
「敵は並の将ではない。有峰を封鎖しただけではなく、江馬父子を高原諏訪城に押し込めていまは小八賀近辺にまで押し寄せておる。
国中が危うい。米を至急頼む。金に糸目は付けぬ」
侍は用向きを伝え、善右衛門と共に木曾谷を経由した流入ルートや物資の警固について手短に打ち合わせを行ったあと、飛ぶようにして来た道を帰っていった。
さて挙兵以来向かうところ敵無しの快進撃を続けていた時貞重富主従であったけれども、兵乱二箇月、兵力不足に起因する手詰まり感はどうにも否めなくなっていた。兵が少ないことが問題であると認識していなかった二人ではもとよりなかったけれども、機を見るに敏な飛騨の諸侍のこと、国中を席捲する自分達の勢いを前にこぞって靡くであろうという見立てが脆くも崩れ去ったことで、焦りを隠せないでいた。
敵方への食糧供給を途絶させ続けるためには有峰封鎖を当面継続しなければならないだろう。高原諏訪城には監視の兵を置いているが、あの堅城を抜くというにはそれだけではどう考えても寡少である。小八賀に進出した時貞率いる味方主力部隊も五十騎程度であり、三木主力と無二の一戦を遂げるにはどう考えても人が不足している。予定では、小八賀に進出した時点で国中の人々が自分達の許に続々参集してくるはずであったがそれがない。
「直頼がこの二十七年間に築いた三木家への信頼の為せる業でしょうな」
現状を冷静に分析する河上中務丞重富の言は、どこか他人事のようですらある。
しかし重富の言を得るまでもなく、この二箇月の間に飛騨の諸侍が直頼に寄せる信頼の深さを思い知ったのが時貞であった。
「しかし、だからといって今さら後には引けまい」
言葉の少ない主従の許に、一騎駆け込んでくる。
「注進! 木曾路より塩屋善右衛門の一行が、荷駄を抱えて入国しつつあり」
「荷は何か」
時貞の聴取に対し、使番がこたえた。
「米と見得申し候」
どうやら直頼は、越中有峰の峠を避けて米を輸入しようと企てているらしい。
「捨ててはおけまい」
時貞が独り言のように言った。
深刻な兵力不足に見舞われながらも時貞勢が何とかこれまで優位を保ってきた所以こそ、敵方の兵糧不足であった。米の輸入を許してしまえばそのアドバンテージが損なわれかねない。木曾路経由の食糧流入路を新たに啓開したことで、敵は息を吹き返しつつある。
「荷駄を襲う」
時貞が下知した。
「これ以上兵を割くは愚策」
重富が止めるが、もとより対案あっての諫止ではない。
「全力を差し向ける」
と重ねて言った時貞の言葉に、重富は反論することが出来なかった。
時貞は小八賀に置いていた自らの本陣に紙旗を連ね、篝火を煌々と焚いたまま、夜半、木曾路に向けて出発した。本陣未だここに在りと偽装しながら、敵の荷駄を襲撃するためであった。




