東濃出兵(九)
いまや益田郡竹原郷の三木家は、飛騨国を代表する戦国大名と呼んでも過言ではなかった。本願寺の証如も、美濃守護職土岐頼芸も、三木直頼を飛騨を代表するものと見做していたからこそ、直頼に援軍の派遣を要請し、或いは出頭を命じたのである。そして直頼は、他国のこういった勢力の期待に違わぬ実力を示した。
後継者たる良頼には嫡男岩鶴が生まれ、いまや直頼は飛騨国内で押しも押されぬ実力者に昇っていた。
(内外に、一段上に昇ったことを示さねばならぬ)
直頼はその必要性を感じていた。
国内諸衆を束ね、一昨年と昨年の二度にわたり外征にも等しい美濃出兵を重ねた直頼である。一段上にあることを顕示したとて、誰もそのことを不自然だなどと咎める者はないだろう。直頼は新左衛門尉直弘や新介直綱、新九郎頼一そして嫡男四郎次郎良頼等の一門親類、その他重臣を三枝城に召し寄せて宣言した。
「わしまいまより大和守を称しようと思う」
これを聞いて一堂よりどよめきが起こる。直頼は続けた。
「右兵衛尉は良頼、汝に譲る」
自らは大和守を名乗り、これまで自身の名乗りとして使用していた右兵衛尉を嫡男良頼に譲ると宣言したのである。自らが、飛騨随一の実力者として他の国人諸衆より一段上に昇ったことを宣言すると共に、嫡男良頼こそが直頼の後継者だと明言した瞬間であった。
直頼の宣言に接して質問したのは右兵衛尉を譲られた当の良頼である。
「父上、大和守を名乗られるというその御意向、那辺にありや」
これに対して直頼はこたえた。
「よろしいこたえよう。いまや三木家は、飛騨を代表する家となった。そのことは分かるか」
「はい。三ヶ所はもはや没落を免れず、廣高とは我等三木家を中心に据える盟約を取り結んでおります。我等なくんば、飛騨は再び各勢力が割拠する乱国状態に陥りましょう」
「そのとおりだ良頼。わしはなにも、三木家を殊更に重んじてひれ伏すよう諸国人に求めるものではない。我等が盟主として起たねば、飛騨はきっと他国の劫掠に曝されるであろう。
そうなれば、もともと貧しい飛騨のこと、人も財も根こそぎ奪われた後は、見放され、焼け野原のようにされて見棄てられることは疑いがない。そうなれば飛騨の人々はどうなるか」
「いつぞや目にした京洛の人々も斯くやと思われる惨状が、この国を覆い尽くすに相違ございません」
良頼がこたえた。
斯く言う良頼自身が、そのあまりの惨状に悪心をもよおした京洛の焼け野原が、この飛騨の地に再現されることだけは避けなければならない。そのためにはこの国を代表する勢力がどうしても必要であった。
自ら大和守に昇り、父はその役割を果たそうというのか。
「父上の御存念、理解できない良頼ではございません。しかし父上、何ゆえに大和守を僭称なされるか」
僭称という言葉の使用すら厭わぬ、この良頼の直截な問いに対し、直頼は苦笑いを浮かべながらこたえた。
「僭称とははっきり申す良頼。
いかさま、大和守など僭称に過ぎん。御公儀(足利将軍。このころは十二代義晴)の帰洛がようやくかなったとは言い条、その権威は地に堕ち、日本全国の大小名こぞって直奏に及んでは、衰微甚だしい朝廷も官途を切り売りしている昨今、飛騨を代表する者としてわしが大和守を称することに、なんの不都合があろう。
否むしろ、いまや力を失った朝廷や御公儀に遠慮などして、自ら求心力を損なうことこそ、わしは恐れるのだ。僭称ではあるが大和守を名乗ろうというのはそのためである。
これまで縷々陳べてきたように、飛騨三木家はいまや内外から飛騨を代表する大名と目されておる。わしはその三木の家中を束ねる家督者である。今日より以降、わしは家中衆の一人に数えられぬ余った存在となるがゆえに、『余』と自称することとする」
「余」という一人称には様々な所以が伝えられている。直頼その中の一つ、
「家中衆として数えない、余った一人(即ち当主)」
という意味合いでの「余」を、一人称として使用することをあわせて宣言したのであった。
三木直頼が大和守を称するようになったのは、天文十年(一五四一)正月のことである。
同年の出来事としては、甲斐国で武田晴信が父信虎を国外追放して無血クーデターを成功させているし、当時中国地方の雄だった大内氏に従属する毛利元就が、尼子氏を吉田郡山城から追い落として安芸国に地歩を固めている。戦国乱世の最終的な勝利者となる徳川家康の生誕はこの翌年であるし、更にその翌年には種子島にポルトガル船が漂着して鉄炮が我が国に伝来した。
直頼が大和守を称し始めた前後、世はまさに戦国乱世の真っ只中にあった。




