東濃出兵(八)
飛騨勢は大桑へ出頭する道中、美濃守護職土岐頼芸の統制に従わぬ東濃の国人衆の一、久々利氏が統治する米田島、野上、和知といった各城へ殺到した。戦前に得た情報のとおり、この三城には兵が籠められておらず、まったくの無人であった。
一日のうちにこれら三城を抜いた飛騨勢は、一路大桑を目指した。しかもその際、久々利氏の本城、久々利城の目と鼻の先を横切っていくという大胆不敵の行動である。
本城の目の前をかすめていく飛騨勢の様を見て久々利の諸侍は俄に殺気立った。
「無人の城を落としたくらいで手柄を吹聴されるだけでも堪え難いのに、本拠地の目の前を素通りされたとあっては武門の名折れ。斬って出て散々に打ち破ってくれよう」
と口々に怒号しながら得物を片手に打って出る。
「来たな。敵だ」
江馬常陸守時貞は既に馬首を久々利勢の方へと向けて迎撃態勢は万全である。その傍らに轡を並べるのは己が股肱とも恃む河上富信。
富信は言った。
「時貞様もそれがしも、幼少のころより我が父重富に良いように張り飛ばされて鍛えられた身。いよいよその武力を発揮できる時を得ました。楽しみです」
「まことそなたの申すとおりだ。わしなど初陣であるが見よ。武者震いのひとつもない。いま、久々利の武者を眼前に置いているが、あれなど重富の恐ろしさに比べたら児戯にも等しい」
時貞がそのようにこたえると、戦場だと言うことも忘れたかのように呵々と大笑する二人。
その時貞が俄に鑓を高々掲げた。
「者ども、かかれ」
鐙を蹴ってそう号令すると、縦横に馬を巡らせる常陸守時貞或いは河上富信といった主立った将に続き、江馬の諸兵は各々の得物を片手に暴れ回って、怒りに任せ備えもなく突出してきた久々利の諸侍を大いに叩いた。河上中務丞重富に鍛えられた両将の武力は並大抵のものではなく、勇将のもとに弱卒なしの喩えどおり江馬の諸兵もよく戦って、久々利の諸兵は競って城へと逃げ帰り、常陸守時貞は殿軍の任を見事果たしてのけたのであった。
この間に大桑に入った新九郎頼一率いる飛騨主力部隊。
「飛騨の田舎侍とはどういったものか」
半ば馬鹿にするような興味本位で新九郎頼一一行を出迎えた美濃守護職の被官人達も、これら飛騨勢が土岐頼芸に敵対する東濃久々利の城三つを一日で抜き、しかも久々利城から打って出てきた敵追撃部隊を散々に打ち破った上で大桑城へと出向いてきたと聞いて、驚きの視線を隠せないでいた。
土岐頼芸など当初は、飛騨の三木家に出頭を命じた際、右兵衛尉直頼ではなく舎弟新九郎頼一を差し向けるという対応に
「美濃守護職を軽んじるか」
と怒気を発しはしたが、田舎侍とばかりに見くびっていた飛騨勢が、稀なる武威を発揮して大桑城へと出頭し、堂々の入城を果たした様に
「久々利を討ち果たした武勇、賞賛に値する」
と賛辞を惜しまなかったのであった。
飛騨古川に所在する寿楽寺般若経巻第五一一後書には、この時の様子が
天文九季八月、三木新九郎殿、濃州土岐殿江出頭、東美濃米田島城野上城、同日ニ城三ツ落居候而被罷通、隣国覚無比類候間(後略)
と、一日に三城を抜いてまかり通り、隣国へと轟かせた勇名は比類なきものであったと誇らしげに記録されている。
「東濃三城を無傷で落とし、守護の激賞を得た」
この報せを桜洞城で聞いた直頼は、既に準備してあった酒樽五十を、三ヶ所廣高へと送り届け国内諸勢力に謝意を表明したのであった。
さてその直頼が良頼を伴って古川城に入城した。向家本城小鷹利城とは目と鼻の先である。直頼はその目と鼻の先にある小鷹利城に自身は赴かず、わざわざ使者を派遣した。
「英子を当家に返してもらいたい」
という用向きを伝えるためであった。
英子が腹に宿す子はいつ生まれても不思議ではなかった。その子を英子ごと三木家に再び迎え入れ、向家から取り上げた上で母子共々養育しようというのである。
直頼と良頼は英子を伴って三木家の夏の城である三枝城へと入城した。英子はそこで良頼の子を出産した。子は男児であった。
古川の血を引き、向家の名跡を名乗る姫が、三木家の城でその嫡男の男児を出産したのである。
男児は、岩鶴と名付けられた。




