東濃出兵(七)
勇将として知られた新九郎頼一も、幾多の戦役を重ねるうちに三人の兄たちから軍略を学んで、合戦の虚実について心得を欠く猪武者などではもはやなくなっていた。
いま、東濃の久々利を巡る情勢を見渡せば、敵と思い定めた久々利は米田島或いは野上、和知といった諸城に兵を分散配置することなく、久々利城に集中させて、迫り来る飛騨勢を迎え撃とうという体勢だ。東濃に割拠する国人領主の一に過ぎない久々利が総力を挙げたとて、飛騨一国を傾けた一千余騎の軍兵を受ければ確かにひとたまりもなかろうが、それでも兵を久々利に集中させたとあっては一朝にして破ることが出来ない難敵と化したこともまた事実なのであった。
したがって頼一には、大軍が籠もる久々利城を攻めるつもりはなかった。もし蛮勇に任せ久々利城に押し寄せんか、彼我の戦力差から考えて戦勝は疑いのないところではあったが、城はなんといっても木曾山脈に連なる山々を恃んで築かれた嶮岨である。城と引き替えに相当の犠牲を覚悟しなければならないだろう。
新九郎頼一は兄直頼から特に言い含められていた今回の合戦の意味を、頭の中で反芻していた。
(大桑に出頭はするが、美濃守護職に対等の礼をとらせるべく、飛騨勢の武威を示すこと)
これである。
城を落としたとしても激闘の末に死者傷者多数とあっては、ところどころ解れた具足や破れた指物、欠けた鑓を手に大桑に出頭したところで、飛騨勢の武威を示すことなどと到底かなわない。
(久々利城攻略に益なし)
頼一の肚は既にそう決まっていた。
新九郎頼一はその方針を伝達するために従軍の諸将を招集し、軍議を行うこととした。
この席上、主将新九郎頼一より
「いまは無人に等しい米田島、野上、和知といった久々利方の諸城を陥落させ、然る後に大桑に出頭する」
という方針を効かされた江馬常陸守時貞は
「しかしそれでは敵の本拠地久々利城を捨て置くことになります」
と懸念を示すと、新九郎頼一は
「確かに強いて攻め寄せれば落とせぬ城ではないが、犠牲者は多数に上り美濃守護職に対し飛騨勢の武威を示すどころではなくなるだろう。久々利城攻めは下策である」
と、その意のあるところを説明した。
「それは分かりましたが、久々利城を捨て置くとなると殿を置かねばなりますまい」
時貞がそうこたえると、頼一は
「それこそ此度軍議の主題。誰か殿軍を引き受けようという者はないか」
と一同に問うた。これを合図としたかのように、軍議の席が俄に静まりかえる。
これは難しい任務である。確かに米田島や野上、和知といった諸城は、いまは無人にも等しい城である。落とすに当たっては造作もなかろうし犠牲者もほとんど出さずにすむだろう。しかし犠牲者をほとんど出さない、という点においては久々利もまた同じことであった。
いま、久々利は兵を本拠地に集中させている。久々利が温存したその兵力を、大桑へと向かう飛騨勢に差し向けてきたとしたらただでは済むまい。そして兵力温存こそ、追撃の兵を飛騨勢に差し向けて痛打しようという久々利の目的に他ならないのだ。これら追撃部隊との戦いは激しいものになるだろう。諸将はその任務の困難を思って沈黙したのである。
久々利による追撃が確実視される中、殿軍は誰しもが嫌がる任務であった。
「やはり久々利城は放置することなく攻め落とすべきではござらぬか」
という者がある。軍議は一周回って元のところに戻ってきた。
そこへ
「いや、やはり久々利城攻めは頼一様仰せのとおり下策でございましょう。殿軍、是非ともそれがしにお命じ下さい」
と殿軍を申し出たのは、此度戦役に従軍する名のある大将のうちで最も若い江馬常陸守時貞であった。一同の目がその顔に注がれる。
集う諸将の視線に臆することなく、時貞は言った。
「此度合戦はそれがしにとって初陣でございます。初陣に当たって無人にも等しい城を攻め落としたからとてなんの手柄になるでしょうか。
かといって久々利城攻めも行われず、ただ大桑へ出頭するだけというなら物見遊山と変わりがありません。
芝(戦場)というものがどんなものか、それがしはこの目で見て、しかと確かめとうございます。殿軍を望むのはそのためです」
この時貞の申し出に頼一は喜んで
「いみじくも申したり江馬常陸守殿。貴殿の心懸け殊勝なり。このことはきっと、江馬左馬助殿に注進申し上げよう」
と激賞したのであった。
新九郎頼一は知っていた。
たったいま殿軍に名乗りを挙げた常陸守時貞の出自を。
永正江馬の乱の際、新九郎は未だ元服を迎えぬ十そこそこの幼年であった。その耳にも、叛旗を翻した江馬時綱遺児が越中有峰に落ち延びたという話は聞こえていた。後年、この男児が、家老河上中務丞重富に伴われて江馬家中に復帰し、常陸守を名乗るようになったということも。
(この者に合戦の要諦を教え込んでおけば、後々なにかの折に役立つかもしれん)
一見無邪気に常陸守時貞の申出を喜んで見せておきながら、新九郎頼一は肚の底でそのようなことを考えていたあたり、曾ての蛮勇の士も、いまや立派に兄直頼を補弼する一廉の将に成長した証といえよう。




