東濃出兵(六)
姉小路向宗熙嫡男貞熙が元服のため上洛し、朝廷より従五位下左兵衛佐に叙任されたのは二年前(天文七年、一五三八)の四月のことであった。志野比に牛丸与十郎一党が滅んでからというもの、向家当主宗熙は衰弱甚だしく、嫡男元服を見届けるかのように逝ったのはその翌年のことである。
ただ、その存命中は最後まで反三木の気概を保ち続けた宗熙である。直頼が英子の身柄を向家に返戻しようと頻りに願い出ていたのを、終生認めることがなかった。宗熙には直頼の思惑が透けて見えていたのだ。
古川の血脈を引く英子を一旦向家に入れて、然る後に三木家の子息に嫁がせようという肚を。
古川家は済俊弟田向重継(改名して姉小路古川高継)が小鳥口に滅んだ後、小島時秀末子がその後嗣に入り、済俊の養子済堯と称して後継していた。生前の済俊に養子などおらず、古川の家督が小島家に簒奪されたのである。いまや古川の家名は失われたも同然であった。
直頼は、その失われた古川の血脈を流している英子を向家に一旦入れて箔を付けた上で、向家の子女として三木家で引き続き養育することを企てたのだ。そうすることにより古川だけでなく向家をも三木家の勢力下に取り込み、国司家に優越しようと企てる直頼の意図が、自身も老獪な策謀家だった宗熙には読めていたのだろう。
累代の家老牛丸与十郎を失い、三木家に対してまったく勝ち目を失ってしまったにもかかわらず、宗熙が直頼の要請を蹴って英子を向家に受け容れなかったのは、宗熙の最後の意地であり、直頼もその老公家の恐るべき執念を前に、一度は英子の返戻を諦めざるを得なかった。
その宗熙が死んだ。
元服を果たしたとはいえ若年の貞熙である。直頼は早速向家に使者を遣った。用向きの一つは、近々予定されている東濃出兵に際して三木家に援軍を派遣すること。そしてもうひとつが、英子を向家の子女として受け容れることであった。
その要望を聞いた貞熙は
「英子と申せば既に何者かの子を腹に宿しているではございませんか。そのような者、当家に受け容れるというわけには参りませぬ」
と一度は拒否したが、三木家からの使者は
「なに、一度受け容れていただき、英子様に向の名を名乗らせていただければ、後は三木家にでもお返しいただければ結構です」
と臆面もなく言い放つ。
これこそ直頼の野望をはしなくも示す三木家使者の口上であった。使者はしまいには
「現在当家には東濃出兵を控えた廣高の諸侍が溢れかえっておるのですが……」
と言った。
廣高とは、廣瀬郷の廣瀬左近将監と高原殿村の江馬左馬助時経を指すこの時代の飛騨特有の語であり、かかる使者の口上はつまり
(返答次第ではこれら国内の兵を向家に差し向けてもいいんだぞ)
という恫喝に他ならない。
若い貞熙には、もはや直頼の恫喝を躱す術はなかった。
さて挙国一致の兵を三佛寺城に集めて、これら国内の諸兵を土岐頼芸居城である大桑城まで引率しようというのは、曾て木曾義元との合戦に際して初陣を望み、そして後年行われた牛丸与十郎との合戦で牛丸又右衛門を討ち取った勇将三木新九郎頼一である。直頼の名代として大桑出頭を命じられたのだ。直頼は三佛寺城に赴き、新九郎頼一に次のとおり訓示した。
「汝は昔、王滝村合戦で初陣を熱望しわしを困らせたものだ。その王滝村合戦では新左衛門尉直弘が、そして昨年の郡上出兵では新介直綱がそれぞれ一軍の大将を努めた。
いよいよ汝の出番である。
引率する軍兵の数でいえば、王滝村や郡上のときよりも多い。しかも此度のいくさには重要な意味がある。そのことは分かるな」
そう言われると改めて緊張する新九郎頼一である。
「心得ております兄上。
大桑へ兄上の名代として出頭する以上、久々利を大いに叩いて飛騨国衆の武威を示さねば、他国より飛騨の三木は土岐の組下か、などと嘲われかねないということです。それだけは避けねばなりません」
新九郎のこたえに、直頼は満足して深く頷いた。
「よくこそこたえたり新九郎。まさしくそのとおりである」
と舎弟を激賞した後、更に続けた。
「わしはな新九郎。三人の弟あるうち、汝に寄せる期待が最も大きいのだ。なぜだか分かるか」
その問いに対しては、先ほどのようにすらすらとこたえることが出来ない新九郎。
「分かるまい。良頼のことだ。
わしは既に四十も半ばに達しようとしている。この先そう長くあるまい」
これには新九郎も驚いて
「兄上は弱気になられたか」
と言ったが、直頼はこれを制して続けた。
「弱気も何もあったものか。わしとていずれ老いて死ぬ。何人たりとも逃れ得ぬ運命である。直弘も直綱も、その運命から逃れられる道理などあろうはずがない。無論汝も同様であるが、しかし汝は我等四兄弟のうちで最も若い。
ところで良頼であるが、あれはわしが過保護に育てすぎたゆえか少し気の弱いところが見受けられる。郡上合戦の折には恐怖のあまり打刀を握る手に力が入らず、得物を落としたそうだ。
わしは、良頼にわしの築き上げたもの全てを譲り渡すつもりでいる。汝の如き股肱の弟もまた良頼への遺産の一つである。これより先、最も長く良頼を見守ることが出来るのはわしではない。直弘でも直綱でもない。汝なのだ。
これぞ汝に最も期待を寄せる所以であるぞ」
と、新九郎頼一にかける期待の大きさを口にすると、頼一は
「さてこそ過分なる仰せ。もったいのうござる。それでは此度合戦でも、兄上が良頼殿に譲り渡す遺産の一つとして大いに手柄を挙げて見せましょうぞ」
と、戦勝を請け負ったのであった。




