東濃出兵(四)
使者の口上伝に直頼の意向を聞いた江馬時経は
「時盛と相談します。しばし待たれよ」
と言って、使者を控えに待たせ、奥へと立ち去っていった。
三木家からの援軍要請と、その意図を聞いた江馬家嫡男時盛は即座に反対した。
「当家は昨年の郡上出兵には関与しなかった立場。頼芸様との関係を悪化させたのは、本願寺との関係ばかりに目を向けた直頼殿の無分別と断ずべきもので、その尻ぬぐいを何故我等がしなければならないのでしょうか。
久々利を討つといっても、その手柄が知行地として我等に分配される性質のいくさとも思われませぬ。援兵の派遣要請など断るべきです」
と辛辣だ。
しまいには
「私にはどうも、妹の死に直頼殿が絡んでいるように思われてなりません。つい最近まで野山を共に駆け回り、頑健そのものだった月があのように衰弱して死んでいくなど、私には今でも信じられないのです。
翻って桜洞城の人質曲輪に住まう古川の娘の腹は日増しに大きくなっているそうではありませんか。父親はきっと良頼殿でしょう。三木は我等江馬家と古川の血筋を天秤にかけ、古川を選んだものに相違ありません」
と、この時とばかりに三木家に対する日頃の鬱憤をぶちまけたのであった。
これには時経も驚き慌てて、
「これッ! そのように証拠のない話を大声でまくし立てるものではない。控えに三木家の御使者を待たせておるのだぞ」
と叱責して黙らせなければならないほどであった。
嫡男時盛との会談はあらぬ方向に飛び火し、時経は自分自身の責任において援軍要請を受諾するか否かを決断しなければならなかった。
月姫の死が直頼の策謀によるものだったかどうかは兎も角、久々利との合戦で江馬家が何らかの利益を得られるとはさすがの時経も信じなかった。合戦なく終われば江馬家にとっては首尾良くいったといえるだろうが、あいにく直頼は久々利氏に対して闘志満々らしい。いくさはどうも避けがたいもののように思われる。
いっそのこと病と称して逼塞してしまおうか。事実、月姫が死んでからというもの気分は晴れず身体は重い。
しかし……と時経は考え直した。
時経が月姫と三木良頼との婚儀を熱望したのは、既に飛騨国内には三木家に抗し得る勢力など皆無であり、用済みと見做された江馬家が併呑されるか討ち滅ぼされる憂き目を恐れたからではなかったか。もしいま、直頼の機嫌を損ねるような挙に及べば、自分が存命のうちならいざ知らず、近い将来江馬家はきっと三木家に討ち滅ぼされてしまうに違いない、と思い至ったのだ。
そのことを考えると時経には
「我が手勢百騎を差し向けましょう」
というこたえしか残されてはいなかった。
なお、この合戦が江馬家にとってなんの利益ももたらさないものになるということは、直頼自身が良く理解していたものと思われる。大桑派遣軍の主将を、三木新九郎頼一に任じたことが、そのことを表している。三木陣営からは、嫡男四郎次郎良頼の参陣すら予定されていなかった。これは直頼からの
「援軍の派遣は求めるが、時経殿と時盛殿の出陣までは求めない」
とする一種の暗示であった。
時経はそこで、一族庶流の江馬常陸守時貞に家老河上中務丞重富の嫡男富信、更に手練の武者百騎を付し、益田へと送り出すことに決心した。
この、東濃派遣軍を引率する江馬時貞。曾て幼名を菊丸と称していたのもであった。
亡き江馬時綱が、側妾小春との間にもうけた子であった。




