同盟の亀裂(四)
粗末な構の店に、侍が一人。
「飛騨三木家の者だが、品物をひとつ頼みたい」
こう切り出されたのは、三木家の郡上出兵に先立ち具足五領を受注した塩屋善右衛門である。塩屋善右衛門にとって飛騨の人々は、その身分の大小にかかわらず、みな分相応に貧しいものだとばかり考えて、さほど重要な取引相手と見做していなかった事情は前述のとおりだ。しかしそういった思い込みも、三木直頼から大口の取引を受注したことによって払拭されたいま、塩屋は飛騨三木家からの商談と聞いてその発注するところに耳を傾けると、侍は眼に昏い光を宿しながら
「鴆毒を一包、所望する」
とだけ告げるではないか。まるで細かい穿鑿は不要とでも言いたげだ。
当然
「そのようなものを何にお使いなさるので」
などという野暮な質問をぶつける塩屋でもない。彼はただ一度頷いただけで用命を受注し、店の奥からこぶし大の小さな壺を取り出してきては侍にこれを手渡した。
「小匙で大の大人がころりと逝きます」
塩屋は殊更に声を落として告げた。侍は壺を受領すると懐から巾着に包んだ代価を塩屋に手渡した。
「分かっておろうが、余所で余計なことをしゃべるでないぞ」
「心得ております」
塩屋にしかと口止めした飛騨侍は、壺を手に街道を飛騨方面へと立ち去っていった。
さて良頼である。
来たるべき家督継承に備え、三木家の本拠地である桜洞城に詰める良頼のもとに、父直頼から三枝城への登城を求める使者が来た。
国内諸城(とはいっても数は相当限られてはいるが)に配置されている三木家の各将は、月に一度、直頼が詰める城に登城することが義務づけられていた。三木家の本拠地は一応桜洞城ということになっているが、実際のところ桜洞城は良頼に任せ、夏の間は国中に睨みの利く三枝城に入るのがこのところの直頼の恒例であったから、今回良頼が登城するように求められたのはその三枝城であった。
それは良いとして、月例の登城までまだ時日があるというのに、一体何用で父はお呼び立てなのであろうか。まさかまた軍役か。
そのような予感に緊張しつつ、三枝城に登城して父と面会した良頼は、父から投げかけられた問いのために、たちまち汗みどろになった。
というのは、
「英子が腹に宿している子の父はそなたか」
と、何の迂遠な言い回しもなく単刀直入に訊ねられたからである。
額から冷や汗が吹き出るのが自分でも分かる。心臓は激しく動悸して呼吸も荒い。いま声を発すれば、激しく波打つ心臓のためにきっと震えていることだろう。
「はい……」
やっぱりだ。
良頼の声は確かに震えていた。
良頼は次に投げかけられるであろう父直頼からの怒号に身構えた。
江馬殿の娘御との婚儀を控えてそなたは一体何を考えているのか。英子といえば従二位中納言姉小路古川基綱卿に連なる血筋ぞ。我等の如き下賤の身に出過ぎた行いというべきである。この場にて腹を切れ。
そのようにでも詰られるものと思っていたが、案に相違して直頼はなにやら思案顔である。
「一応叱りおいておく。この馬鹿者」
口では叱ると言ったが、その口調は怒りや嘲りといった感情とは無縁のものであり、かといって良頼を冷たくも見放したような口調でもなかった。そう、直頼はただひたすら思案顔であった。
予想されていたレベルの叱責を受けられなかったことは、却って良頼を不安にさせた。
「申し開きようもございません」
平蜘蛛のように這いつくばって詫びても、その良頼の姿は直頼の視界に入っていないようであった。
どれほどの時間が経ったか知れない。
直頼がようやく良頼に気付いたように言った。
「ところでそなた、月姫のことはどう思っているのか」
来年早々に婚儀を予定している江馬左馬助時経の娘、良頼の許婚者である。その月姫のことをどう思っているかと問われて
「どうとも思っておりません」
などとこたえられるはずもない。良頼は
「間違いを犯した恥ずべき身ではありますが、月姫もそれがしにとっては大事ない女性にございます」
と言うと、直頼はここで初めて正気に戻ったように
「左様か。しかし分かっておろうが両名を一時に、というわけには参らぬぞ」
と告げた。
良頼は言った。
「当然でございます。それがしは月姫と添い遂げる所存です。英子のことはそれがしでなんとか……」
「英子のことはわしに任せよ」
直頼はそれだけ告げると、用は済んだとばかりに奥へと引っ込んでいった。
不思議なことに良頼には、その父の背中がまるでなにかやましいことをして逃げる罪人の背中のように見えたのであった。




