郡上出兵(三)
「遠路はるばる、よくぞ越された」
抹香の香りが充満する道場にあって、法主証如の出迎えを受ける三木家一行。
証如は道中、この一行がたどってきたであろう道程の困難さ、ことに京洛の凄惨な情景を目の当たりにした心情を慮るように、
「この大坂に至ればもう安心でございます。ここより安全なところは、畿内近郷にはまずございませんよってに」
と言った。
蓮如存命のころは洛中大谷に寺域を構えた本願寺であったが、これが法華宗の衆徒により焼討にあうと、洛外の山科に寺域を構えた。大谷失陥後、本願寺勢力が山科の地を選定したのは、教団が拠点を有する越前吉崎や加賀尾山といった北陸地方との連絡が比較的容易だったからとも伝えられている。
九世実如、更に十世証如の二代にわたり整備拡張が続けられた山科本願寺も、再度法華宗との軋轢を生じて焼討の憂き目を見たのは今を遡ること七年前、天文元年(一五三二)八月のことであった。以来本願寺は摂津国東成郡の石山御坊に拠点機能を遷し、大坂本願寺と称するようになる。
さてその大坂本願寺。
寺域は上町台地北の小高い丘陵上にあり、これは丘の北側を流れる淀川と旧大和川の合流点が削り取った河岸段丘であった。旧大和川はこの丘陵東側を南北に流れ、丘陵西には淀川河口にあった渡辺津が広がっていた。北と東を河川に、西を海に守られた要害の地であるというだけでなく、水運海運を利用して周辺諸勢力と結ぶことも思いのままの要衝が、大坂本願寺であった。証如自身が胸を叩いて自負するように、これほどの要害は、当時既に城郭建築先進地域だった畿内近国でもまず見ないほどの規模であった。もう少し後の記録になるが、証如の子、十一世顯如のころにその祐筆を務めた宇野主水は、その寺域について
中嶋天満宮ノ会所ヲ限テ、東ノ河縁マデ七町、北ヘ五町也、但屋敷ヘ入次第ニ、長柄ノ橋マデ可被仰渡云々、先以当分ハ七町五町也、元ノ大坂寺内ヨリモ事外広シ
と記録しており、この記録に従って東西七町(約七六三メートル)、南北五町(約五四五メートル)規模であったとする説が最も有力視されている。
但し、この大規模城郭も決して証如を満足させるものではない。
教団の生まれ故郷ともいえる北陸との連絡に難がある。証如が大坂という立地に抱く不満は、その一点に尽きた。
最も手っ取り早いルートは大山崎から入洛し、更に北上して近江坂本から湖西を経由し北陸道に至る街道である。しかしこのルート上には比叡山延暦寺がある。近江坂本をその影響下において、街道を押さえる存在である。比叡山延暦寺といえば、法華宗衆徒とともに山科本願寺を破却した証如にとっての不倶戴天の敵であった。事実上この連絡通路は途絶してしまっているといっても過言ではない。
残るルートは大津から琵琶湖東岸を北上し北陸道に至る街道だったが、これとて盤石とはいえない。なんといっても江南一帯に勢力を張る六角定頼は、延暦寺側に立って山科本願寺破却を手伝った敵対勢力に他ならなかったからである。
ただ、江南ルートは宗派間の近親憎悪的感情がないだけ、通行が比較的容易であった。
証如によれば、その通行の安全が、いま危機にさらされているというのである。
郡上において一向宗門徒をより多く抱えるのは鷲見、畑佐といった武士団であり、この両氏と、同じく郡上に勢力を張る遠藤氏、野田氏が対立しているのが郡上の情勢であった。証如は各所に敵が散在して北陸との連絡通路を妨げられている情勢下、各個に敵対勢力を駆逐して、なんとか情勢を好転させようと必死だったのである。
飛騨は一向宗の影響力が強い地域であった。そもそも北陸各国とりわけ越中国とのつながりが強い国だったというのが、その所以であった。
平易な教義で身分を問わず信徒を増やし、急激に教線を拡大させていたこのころの一向宗に対して、各地域権力の対応はまちまちだった。当代であれば越後の長尾為景や前述の六角定頼、もう少し後の人物にはなるけれども徳川家康も織田信長も、徹底してこれを弾圧する武断派であったが、一方で甲斐武田氏は武田信玄と顯如が縁戚関係にあったことも手伝って関係は良好であった。
三木家も同様であった。
他国の事情は知らないが、少なくとも飛騨においては家中衆や国内諸豪族にその信徒を多く抱え、彼等なくしては到底家中が成り立たないほどの一大勢力であった。




