郡上出兵(一)
塩屋善右衛門にとって飛騨という国は、塩を落とすためだけに通りすがる山間の道に過ぎなかった。時折国司家家人を名乗る、鼻持ちならない態度の役人に呼び止められて無理難題を押し付けられるだけのとかく商売にならない地であった。
人が少ない。
財も乏しい。
なのにやたらと手のかかるものを所望しては、自分に対してはなんの効力も持たない国司家としての威勢とやらを笠に着て、値切りを仕掛けてくる鼻持ちならない連中。
ある時など、国司家姉小路小島時秀家人から
「鴆毒を粉末状にして練り込んだ頭巾」
なる珍妙な品を受注したこともある善右衛門である。
鴆とは毒蛇を常食することにより体内に猛毒を有する鳥を指し、その羽毛一枚を酒に浸せば忽ち毒酒と化して何ら気取られることなく簡単に人を殺めることができたという。
ただ、鴆なる鳥類の実在については証明されておらず、実際のところ鴆毒とは、ヒ素化合物などの有毒物質であったと考えられる。
どこの誰に対してそのようなものを使うつもりだったのかは知らぬが、人を殺めるために発注されたということだけははっきりしていた。
気が進まぬなか、注文どおりの品物を揃えて小島家家人に手渡した善右衛門。その善右衛門が、姉小路古川済俊の死を知ったのはそれからしばらく後、越中在国中のことであった。
(まさか……あのときの頭巾で……)
済俊公の死を毒殺とは噂にも聞かぬ善右衛門であったが、なんともいえぬ後味の悪さだけが残る商いだった。
この時代、有力な大名は皆押し並べて大商人との関係を重視した。
たとえば尾張の守護代織田信定などは商人との関係を重視して大を成した好例であろう。木曾三川に跨がる物流の要衝津島湊を押さえることは、強力な経済基盤を築く上で必要不可欠な要素だった。津島衆を従えて確固たる経済基盤を築いた織田家は、信定の孫信長の時代に至り、有り余る経済力を活かして上洛を果たすことになる。
甲斐武田家においても、諏訪の春芳宗普などが大商人として武田家と浅からぬ間柄を取り結び、信玄の代に足軽七十人の士分に取り立てられている。
その他、豊臣秀吉にとっての千利休、徳川家康にとっての茶屋四郎次郎など、これと見込んだ大名に出資して経済的にこれを扶ける大商人は、有力大名にとって必要不可欠の存在だった。
どこを見渡しても商売敵ばかりだ。
塩屋善右衛門は嘆息した。さしあたり北陸に雄飛の勢いを示すのは越後府中の長尾為景であったが、これは既に当地の特産品である青苧座の頭人、蔵田氏と関係を取り結んで久しい。七湊と呼ばれる北陸沿岸部の貿易港、とりわけ塩屋善右衛門が主たる活動範囲とする越中越後などの湊は、既にこの蔵田の息がかかっており、塩屋善右衛門の如きが新規参入出来る隙がない。
塩屋善右衛門は、巨大な座(同業者組合のこと)の間隙を縫って日々を消光するに過ぎない、小さな存在だった。
飛騨は、巨大な蔵田ですら食指を動かさぬ地である。それも無理からぬ話であった。
飛騨国内ならばいざ知らず、自分のよう他国者に対して通用するはずのない国司家の威勢を示し、商売で優位に立とうとする退嬰的な連中が、大を成す存在とは到底思われない。提携して投資しても、内輪揉めで自壊するか他国に併呑されて、無駄な投資に終わるのがオチだ。
蔵田も、もちろん塩屋善右衛門も、飛騨というところをそんなふうに考えていた。
十数人規模の小さな隊商を率いながら、十一になったばかりの善七にそんな話を語って聞かせる善右衛門。その眼に関所が映る。
「塩屋善右衛門の一行であるな」
関守からそのように声を掛けられた善右衛門。善右衛門の名を知っているところをみると、どうやら商談らしい。
「そうですが、あっしらはこれから美濃へ荷を届けようという道中。あいにく関銭の他に余分な路銀など持ちあわせてはおりませんし、荷も先方に届けるばかりのもの以外にはありません。国司家の御歴々からのせっかくのお声掛けですが……」
まるでこんなところに用はないとでも言わんばかりに立ち去ろうとする善右衛門である。前述のような理由から、大口の客とはいってもせこくて鼻持ちならない国司家の連中が商売の相手だと思うと、その対応も自ずとぞんざいなものにならざるを得なかった。
そんなつっけんどんな善右衛門に対し、関守は言った。
「国司家? なんの話だ。我等は三木右兵衛尉様より手配あって具足を発注しようというのだ」
関守とばかりに思っていたのは、三木家という武家に仕える侍であった。
善右衛門はその侍が持ち掛けてきた商談に瞠目した。
具足五領。
三木家という武家がどれほどのものかは知らぬが、具足五領ともなると大口の取引である。塩屋善右衛門は先ほどまでのぞんざいな物言いも忘れて思わず
「承りました」
と即答しそうになったが、寸前ところで冷静さを取り戻した。
落ち着いた善右衛門が目の前の侍に対して言った言葉は
「具足をともなると運搬に馬匹が要りようとなりましょう。また警固の人数も増やさねばなりません。そういった金子も頂かねばなりませんが……」
という要求であった。
要するに、取引相手として信用するに値するかどうか値踏みしているのである。
三木の侍はといえば全く逡巡する様子も見せず
「良かろう。右兵衛尉殿はきっと了承なさるであろう。ではよろしく頼む」
と、その商談を急いでいる様子であった。
「父ちゃん、大口のお客だね」
飛騨の連中はしみったれたやつらばかりだと散々こき下ろしてきた善右衛門に、善七は笑顔を見せて言った。
善右衛門は思わず苦笑いした。
(それにしても三木右兵衛尉ってのは、いったいどこの何者だ……)
自分を取り巻く八方ふさがりの環境に、何やら変化の兆しを嗅ぎ取る塩屋善右衛門なのであった。




