享禄の乱(七)
滲み出る高貴の趣を前にすれば、飛騨随一の威勢を誇るようになった三木直頼とて、十そこそこの女児に対し
「名はなんと申す」
などという無礼の問いを発することが出来ない。
それどころか却って
(古川の血脈とはこれほどまでのものか)
と感嘆させられる思いであった。
古川蛤城を落ち延び小鳥口にて古川一党を族滅に追いやった新左衛門尉直弘が、捕らえた姫古川英子を直頼に引き会わせたのである。
直頼は唐突に持ち込まれた姫の処遇について考え込まざるを得なかった。
ほんらいであれば、小島時秀或いは向宗熙にその身を委ね養育させ、名家の子息に嫁がせるなどして古川家を再興させるべきであろうと考えられたためであった。事実、古川基綱は自らに楯突いた小島勝言が死去したあと、その子時秀に娘を嫁がせて小島家を再興させた経緯があった。
たとえ一族間で反目しあっても、それは個人的な軋轢に止めるべきものであって、それぞれの家名は存続させるべきものとあらかじめ諒解されていたからこそ、姉小路三家は今日まで続いてきたのである。
しかし、それにしても。
小島時秀にしても向宗熙にしても、両名による卑怯な振る舞いを顧みれば、こういった手合いに済俊遺児の身柄を委ねて良いものとは、直頼には思われなかった。
直頼は、古川済俊の遺児を三木家で養育することを決心した。
「直頼は亡き済俊公の姫君を養育しているらしい」
これは国中で噂になった。
あるとき、江馬左馬助時経より
「ときに、済俊公の遺児はいずれの家に返戻されましたか」
という問合せを、直頼は受けた。
これは江馬時経から直頼に対しておこなわれた一種のかまかけであり、実は盟友江馬家にも、直頼が済俊遺児を養育しているという噂が伝わっていたのだ。
問合せに対し、直頼はばつが悪そうに
「実はもろもろの事情を勘案して、いまは当家で養育してござる。然るべき時期が到来すればいずれかの家に返戻するつもりでござる」
とこたえた。
無論然るべき時期が到来すれば、などというのは方便にすぎぬ。直頼には遺児を国司家に返戻する気などさらさらなかった。
江馬左馬助は使者経由で直頼の返事を聞いて大いに訝しんだ。
「公家の姫君を武家で養育してなんとなさるおつもりであろう」
これは江馬左馬助でなくとも抱いて当然の疑問であった。しかも江馬家と三木家の間では、既にそれぞれの娘と息子に婚約が成立している間柄だったのである。
「公家の娘を自家で養育し、己が嫡子に娶らせる肚なのでは」
と左馬助時経が疑ったとしても、それはやむを得ない話であった。
(奇貨居くべし)
古の唐国は戦国時代の韓の豪商呂不韋は、趙の都邯鄲に人質として抑留されていた秦の安国君の子、子楚と知己の間柄となった。安国君には二十数名の子があって、子楚がその後継として起ち、秦王に昇る目はほぼないと考えねばならなかった。事実、「場合によっては死んでも構わない存在」と目されていたからこそ他国への人質として出されていたのが子楚というわけだった。
呂不韋は有り余る財力を駆使し、この子楚を秦王に就けるべく暗躍した。
安国君が歿した後、子楚はその後継として秦王の座に就くことになる。これが秦始皇帝の父荘襄王である。
済俊遺児である英子。その立ち位置が子楚と被って見える。
直頼は、呂不韋が子楚と知己の間柄になった際に呟いたという言葉
「奇貨居くべし」
を思い浮かべて、同じ言葉を心中秘かに呟いたのであった。
さて直頼はこの姫君をさっそく生年十一になる嫡男四郎次郎に引き会わせている。
「これなるは亡き古川済俊公の姫君である。今日よりそなたにとって妹同然の間柄となる。仲良うせよ」
四郎次郎も姫君も黙ってうなづいた。三つしか歳の違わぬ両名は互いに目が合うと、はにかんだように顔を伏せた。
永正江馬の乱以来、鉄壁の同盟を誇った三木家と江馬家の間に、小さな小さな亀裂が入った、これが最初の出来事であった。




