享禄の乱(六)
「よ……よくぞ兇徒を打ち払った。こ……今後も忠勤に励むように」
上座にあって汗みどろ、しどろもどろになりながら直頼を褒賞するのは小島時秀である。相変わらずこの人物は、家名を笠に着て国司然として振る舞おうとしているのだ。
曾て姉小路古川基綱は従二位中納言まで昇り、姉小路三家随一の威勢を誇ったものであった。それが一族間の内訌により、いまやその古川の家名は失われ、三木家が実質的な飛騨の支配者になっていた。
小島時秀は既にその時代の変化を肌で感じ取っているのだ。
一族の体内に脈々と流れてきた国司家としての血筋が、小島時秀本人の意志とは関わりなく、依然としてこの男に分不相応な振る舞いを強いているもののように、直頼には思われた。
小島時秀の肉体と精神は、その不一致のために悲鳴を上げているのだ。噴き出る汗はその証拠なのかもしれない。
直頼は次いで、向宗熙の元に参じた。小島家を訪れたときと同様、その名目はといえば、国司家に対して戦勝の礼を申し上げるためというものであったが、その実はというと、家宰牛丸与十郎を見棄てた宗熙が、一体どんな顔で自分達を出迎えるのか。その心根を見極めてやろうという考えからであった。
向宗熙の対応も、小島時秀のそれと大して代わり映えしないものであった。宗熙は悪びれもせず
「当家の兵を私し、私戦に及んだ謀叛人をよくぞ誅殺した」
などと恥ずかしげもなく言ってのけたあたりは、直頼を内心大いに不快にさせたものであった。
さて「飛州志」所収飛騨一宮所載棟札は、この享禄三年から四年にかけての騒乱と顛末について
(前略)享禄三年六月三日当社後ノ大杉ヘ火雷カカリ□□□□世ノ中ハ十分也、同六月十五日夜当国古川殿内衆ノ雑説ニ依テ廣瀬ヘ被取退畢、然ル処ニ三木殿□□□□無事也、以之七月中目出シ、辛卯向牛丸与十郎志野比ニ籠リ候ヲ益田衆攻落シ候一段高名ドモニ候キ、辛卯三月廿日古川ノ城落候、皆々白川へ牢人候也、大野衆渡リ合小鳥口ニテ悉ク分取リ也、打死数多、同辛卯四月廿五日両小島ヘ礼ニ御越候、直国一味ニテ候
(□部は判読不能文字)
と記している。
原典が失われており、また和漢文全般にいえることだが主語が省略されている部分もあって意味が取りづらいが、古川家中衆が流した雑説によって何者かが廣瀬領に引き退いたと読むことが出来る。
作中では、古川家と反目する小島時秀を「廣瀬ヘ被取退畢」の主体としたが、恐らくその解釈で誤りなかろう。
棟札文末に「直国一味ニテ候」とあるのは、従来
「直国という三木家の一族の者が、この乱を経て直頼に味方した」
と解釈されてきた。
この解釈に従えば古川家中衆と小島家の内訌に、三木家の内訌が加わって争われたことになる。
しかし近年、高山陣屋学芸員で安国寺副住職でもある堀祥岳氏より、
「直国、一味ニテ候」
ではなく、
「直ニ、国一味ニテ候」
と読む見解が示さ、本作もその見解に従って記している。三木直国と称する三木一族内の叛逆者について、その事績が今日全く伝わっていないからである。
ただ、三木直国なる人物の実在が証明されたにせよされなかったにせよ、「国一味」、即ち三木直頼による実質的な飛騨統一が、この享禄の乱で果たされたことはどうやら間違いなさそうである。
なぜならば飛騨三木家はこの後、これまで繰り返してきた国内での争いに終止符を打ち、隣国美濃へノ進出を繰り返すようになるからである。
飛騨三木家は享禄の乱での戦勝を契機として、戦国大名として脱皮する新たな段階に入りつつあった。




