享禄の乱(四)
志野比に落ち延びて以来八ヶ月。
年は明けて享禄四年(一五三一)になっていた。
その間、小鷹利城への復帰も赦されずただ砦に籠もるばかりだった牛丸与十郎一党の我慢は極限に達していた。僅か十数名の少人数とはいえ備蓄の食糧にも限りはあり、主家から見放された自暴自棄の念も相俟って、半ばやけくそ気味の挙兵を唱える僅かな諸侍すらも、牛丸与十郎は抑えられないでいた。
与十郎が遠からず蹶起するであろうことを密かに恃み、共同作戦の実を挙げることを望んでいた古川家へ使者を遣ろうにも、各関所は与十郎によるそういった動きをあらかじめ予測していた直頼によって厳重に固められており、容易でないことは明らかであった。事実、これまで三度使者の派遣を試みたが、一度は連絡途絶、二度は突破を諦めて帰還せざるを得ない有様であった。
(もはや起つしかないか)
与十郎はなんの成算もなく起たねばならない立場に追い詰められた。
あるとすれば自分達が挙兵することによって古川家中衆がこれに呼応するという僥倖だけであった。志野比に追い詰められた与十郎一党にとって、それ以外に事態を打開する有効な方策はなかった。
同年三月、牛丸与十郎は志野比から打って出て各所に放火し狼藉を働き、反三木の旗印を再び掲げた。
一方の古川家中衆は牛丸与十郎蹶起の報を得て俄に活気づいていた。
渡部筑前は
「牛丸与十郎に続いて我等が蹶起すれば、向家は年来の友誼に則り必ずや我等に味方するでしょう。小島時秀さえ討ち滅ぼしてしまえば、三木家は国司たる古川家の威勢に靡くに相違ございません」
と、飛騨国内の力学に疎い新主姉小路高綱(田向高継より改名)を殊更に焚き付け、ここに古川家は、牛丸与十郎に呼応して反小島の兵を挙げた。
(済継卿、済俊公二代にわたる怨念を晴らすのは今をおいて他にない)
渡部筑前を動かしていたのは骨の髄まで染み渡った小島時秀への強い怨念であった。
時に味方を殺し、時に下げたくもない相手に頭を下げてきたのは、小島時秀に対して抱く怨念を晴らす今日このときのためであった。
済継にしても済俊にしても、その死が小島時秀による暗殺と確信を以て断言できるほどの証拠はなかったが、渡部筑前はそのように信じて疑ってはいなかった。両名の不慮の死によって最も恩恵を受けたのが小島時秀であってみれば、渡部筑前にとって証拠など不要であった。
具足に身を固め、新主姉小路高綱を奉戴して出陣しようという渡部筑前の脳裡に繰り返し浮かぶ光景がある。小島時秀が自らの膝下に屈するその姿である。
渡部筑前は平蜘蛛のように這いつくばって詫び言を口にする時秀の頭を踏みつけ、縄目の恥辱を与え、泣き叫んで赦しを請う時秀の姿を白昼夢に見た。筑前は主君高綱に耳打ちして、ともすれば時秀を赦免しようと心がぐらつくのを傍らから妨げるのである。
時秀がその筑前の姿を見咎めて何ごとか怒号を上げようとした刹那、高綱が
「二代にわたり古川当主を弑虐した罪、断じて赦しがたい。首を刎ねよ」
と言い渡し、左右の侍に引っ立てられて惑乱のなか首を刎ねられる時秀の姿を、渡部筑前は飽きもせず何度も何度も想像してはにやついていた。
そこへ……。
「注進! 三木家大野衆当城に迫りつつあり! 寄せ手の大将、新左衛門尉直弘と見得申し候」
一騎の使い番が躍り込んで来て言った。
渡部筑前の愉悦の白昼夢はこれにより唐突に破られた。
「おのれ直頼舎弟風情が当家に楯突くなど出過ぎた真似を!」
と吼えてはみても、単純な兵数やその練度からいって古川衆が直弘率いる大野衆を撃破するなど到底かなわないことは、どう贔屓目に見ても明らかである。
「このうえは城を捨てて三木や江馬の支配の及ばぬ白川へと引き退きましょう。白川の内ヶ島と申せば御公儀(将軍)の奉公衆。よもや我等に対して無礼の振る舞いに及ぶことはございますまい」
筑前は高綱にそう進言した。
確かに渡部筑前の見立てはそのとおりであった。幕府奉公衆即ち足利将軍の親衛隊として名を連ねる内ヶ島家が、公卿補任にも名を連ねる姉小路古川家に対して乱妨狼藉に及べば、朝廷と幕府との間に無用の軋轢を生じかねない。白川への遁走は、いま採用し得る最良の選択であった。
これまで出陣準備に大わらわだった古川蛤城内は急な方針変更により、今度は白川郷へと遁走するための準備で大わらわになった。




