享禄の乱(二)
「見えた。敵だ」
直頼は独りごちた。
遠くに見えるのは連翹襷をあしらった旗。姉小路累代の家紋を旗印に押し戴き、権威に任せてこの三木直頼を押し潰してしまおうとでもいうのであろうか。
「推参なり牛丸与十郎。我が舎弟新九郎頼一はあるか」
直頼は新九郎を傍らに呼び寄せた。
「これに!」
兄の許に馳せ参じ折り敷く新九郎。
その新九郎に直頼は言った。
「あれは木曾を王滝村に討った時のことであろうか。向家家宰牛丸与十郎がわしに対して無礼の振る舞いをおこなったことよ」
「忘れるはずがございません」
「いま彼方に見えるは連翹襷の旗を掲げた敵の一隊である。姉小路累代の家紋をあしらった旗を掲げてはおるが、引率の将は向家家宰牛丸与十郎と聞く。したがってあれなど僭称の類いに過ぎず恐れるに足りぬ。
王滝村合戦の折、汝はわしに与十郎の無礼を咎めよと申したな。それに対しわしは木鶏の故事を語って聞かせ、そうはしなかったものだ。しかしいま、図らずも芝(戦場)にて相まみえ、与十郎は我等の討ち果たすべき敵となった。二年前の兄の不明を許せ。
新九郎、あれなる敵をなんとするか」
「討ち果たして見せましょう」
「いみじくも申したり! 行け新九郎!」
新九郎は恐怖を振り払うように本陣を飛び出した。
「我こそは三木右兵衛尉直頼が舎弟新九郎頼一! 姉小路累代の旗を押し戴いてはおるが、その威光にすがって得られる勝利などあろうはずもない。汝等の敗北はいまから定まったようなものだ。嘘だと思うなら尋常に立ち合えい!」
新九郎が進み出て大喝すると、敵陣から一騎、進み出る巨漢がある。
「そなた如き若年の軽輩相手に名乗るも勿体ないが向家中衆牛丸又右衛門とは俺のことだ。そなたにとっては最後に会った武者となろう。今生の思い出とせよ」
巨漢は腹の底に響くような重低音で呼ばわると、その有り余る膂力に任せて薙刀をぶんぶんと振り回しながら、新九郎めがけて喚き掛かってきた。新九郎は恐れる素振りも見せず馬の腹を蹴って果敢にも前へと進み出る。
ガンッ!
眼に火花が散るような、乾いた音が戦場に響く。又右衛門が打ち下ろした薙刀の柄を、新九郎が手鑓の柄で受け止めたのだ。又右衛門の懐に飛び込んで恐れもせずその攻撃を受けきり、しかも偶然か新九郎が敢えて狙ったものかは知れぬが、又右衛門は薙刀を握る指を新九郎の手鑓の柄に強か打ち付けて、一合目から必殺の薙刀を落としてしまう失態を演じる牛丸又右衛門。
それでも又右衛門は少しも怯まず、さかんに繰り出される新九郎頼一の鑓の穂先を躱しては打刀を振るって反撃を試みる。このように一騎討ちが長引けば、有利なのは若く持久力に富む新九郎である。
射程距離の長い鑓を近付けまいと重い打刀を振り回していた又右衛門は急速に疲労していった。新九郎は汗だくになっている又右衛門の打刀の先端が上がらなくなったことを見極めると、鑓の先端を上手く又右衛門の籠手に合わせた。たまらず打刀を落とす又右衛門。得物を失った上は馬首を返して自陣に逃げ帰ろうと試みるが、新九郎は逃れさじとこれを追って背後からひと突きに又右衛門を突っ殺した。脇差により敵味方の眼前で又右衛門の首を掻っ切り、新九郎は初陣にて見事、敵の属将牛丸又右衛門を討ち取る殊勲を挙げたのであった。
「見事なり新九郎!」
本陣の直頼は新九郎の勝利を見届けるや床几から立ち上がり、同時に黒漆塗りの軍扇を開いて、新九郎の奮闘に賛辞を惜しまなかった。
万を超える人々を数カ所の戦場に投入し、同時並行的におこなわれる当代屈指の大合戦とは異なり、飛騨国内で戦わせる合戦は、少ない人数を一箇所に集めておこなう戦い方が主流であった。主流であったというよりも、別動部隊を編成できるほどの人を集めることが出来なかったといった方が正しい。そういった策を弄するよりも、主戦場に出来るだけ人を投入し、一挙に勝敗を決してしまう方が手っ取り早いと考えられていた。そのような戦場では、緒戦で利を失った側が巻き返すこともままならず、緒戦の不利を引き摺ったままずるずると敗北するのが通例であった。
また双方小勢なだけに、個々の侍が自軍の有利不利を嗅ぎ取るのも早い。旗色が悪いとみれば付和雷同して敵方に転ずる変わり身の早さは、他国の侍に抜きん出る飛騨侍のひとつの特徴といえた。
向家の諸侍もこの弊を免れない。
殿軍を引き受けるような勇将はたったいま討ち取られた牛丸又右衛門以外にはおらず、与十郎は十数騎の馬廻衆と共に撤退しなければならなくなった。その他の兵は、押し並べて三木方に転じるという変わり身の早さであった。




