享禄の乱(一)
水無神社を囲む鬱蒼とした杜に落雷があった。このために大杉の古木が焼け、人々は凶兆を噂し合った。享禄三年(一五三〇)六月三日のことである。由緒ある飛騨一宮への落雷と火災の出来は、国内の人々の動揺を誘う一大事件であった。
この変事にあたり、年来の野望を遂げようという男がひとり。古川家飛騨在国家宰渡部筑前その人である。
いまや他国の木曾を討ち、盟主として飛騨国内に君臨するのは三木右兵衛尉直頼であった。姉小路嫡流小島時秀はその後ろ盾を得て盤石。翻って古川家といえば、不慮の死を遂げた済俊に代わってその弟田向高継が古川高綱と改名し跡目を襲っていたが、古川基綱卿の代に誇った隆盛は見る影もなく衰え、衰退を覆す有効な手立てがない。
渡部筑前は焦っていた。
このままかかる現状を放置しておけば、古川は二度と小島を凌駕することが出来なくなってしまうだろう。もはやどのような事象であっても、利用できるものは利用しなければ、固定化されつつあるこの現状を覆すことなどどだい無理な話になりつつあった。
そんな折の飛騨一宮への落雷。国内随一の由緒を誇る水無神社への落雷に人々の動揺は甚だしかった。
「なんだこれしきのことで」
と軽視するのは現代人の独善的なものの考え方である。事実古川家中衆はこれを機に素早く行動を起こしている。現代風にいうならば、「社会不安に便乗して噂を流した」といったところだろう。
しかしこれは古川家が独断専行したものではない。三木家の後ろ盾に裏付けられた小島時秀の隆盛を快く思わぬ向家家宰牛丸与十郎と年来打ち合わせたとおり、
「向家と古川家が協働して、小島城を挟撃しつつある」
という噂話を流布させたのである。
腰の据わった当主であればかかる噂話を俄に信じることなく。諸方に手を回して真偽のほどを確かめるべきところ、小島時秀は生来の小心からそのようなこともせず、着の身着のまま廣瀬郷に退く醜態を晒した。廣瀬左近将監が病死し、その跡目を襲って三年目の廣瀬次郎治利(このころには父と同様、左近将監を名乗っていた)の元へと逃げ込んだのである。無論、廣瀬氏と三木氏が同盟を取り結ぶ間柄だったことに信倚して、かかる行動に出たものであった。
小島古川の相克を余所に、ひとり力を蓄えていたのが向家である。家宰牛丸与十郎は蓄えた兵力を小島城へと進めていた。ただ、力を蓄えたとはいうものの飛騨という国情から逃れ得るものではなく、兵力は百騎を越えるか越えないかという小勢に過ぎぬ。
「小島時秀は古川家当主を二代にわたって弑虐した。許すべきではない」
牛丸与十郎はこれまで噂の域を出なかった時秀による済継済俊殺害を事実と断定し、これを小島家討伐の旗印に掲げたのである。
廣瀬治利の本拠地高堂城から、桜洞城に向けて早馬が一騎、駆け出でる。三木直頼に援兵を請う早馬であった。
廣瀬からの後詰要請を得た直頼は早速出陣した。
当初は二十名ほどの小勢であったものが、三佛寺城に到着するころともなると、牛丸与十郎が引率する百騎に迫る一端の軍勢に成長していた。
「怖いか新九郎」
直頼はぶるぶると震える新九郎頼一に声を掛けた。二年前の木曾侵攻に際して初陣を望んだ血気の若者も、実際具足に身を固めて芝(戦場)を踏むと言いようもない恐怖に襲われるものだ。無論斯く言う直頼自身も通ってきた道である。
ただ自分の初陣は、今日の新九郎のように恵まれた状況とは到底いえなかった。父重頼が亡くなったことを契機として、江馬左馬助時重時綱父子が挙兵したのだ。これを今は亡き江馬三郎左衛門尉正盛と協働して征伐したあのときが、直頼にとっての初陣であった。
父が亡くなった心細さ。
初めて踏む芝の恐怖。
今回の戦役には新左衛門尉直弘、新介直綱も当然従軍している。三木四兄弟が揃っての出陣であった。そのような状況での初陣と思うと、新九郎は自分と比べて遙かに恵まれていると言わざるを得ない。
直頼がひとりそのようなことに思いを巡らせているとはつゆ知らず、新九郎頼一は向きになったように
「怖くなどありません。武者震いです」
とこたえたが、その声も震えている。
「よい。怖くて当然だ。そうでなければならん」
「怖くないと申しておりますのに!」
直頼は身体だけでなく声まで震わせている新九郎を咎めはしなかった。




