木曾侵攻(六)
「守護の又被官如きがなにを偉そうに」
憎々しげに歪めた口許から、鉄漿を塗り重ねて黒光りする歯が覗く。
小鷹利城にて牛丸与十郎から、先の木曾戦の顛末について復命を得た向宗煕は、与十郎の話が直頼による勝ち鬨の儀の執行に及ぶや、そう毒づいたという。
そもそも今回の戦役、国司家より出馬を命じられてのことであり、そういった性質の戦役で手柄を挙げたうえは、国司家の一、向家当主より毒づかれる筋合いなど微塵もないと直頼あたりは言うかもしれない。
しかし現下、姉小路国司家の惣領は向家ではなく、小島時秀であった。姉小路嫡流とはいうものの、小島家は長禄年間(一四五七~一四六〇)に、小島勝言が父持言を殺害して家督を強奪した疑いを抱かれている家でもあり、そのあたりの事情は先述のとおりである。
そういった疑惑の血を引く時秀が、年長者だからという理由だけで一族の長と認められている現状が、そもそも宗煕にとっては面白くない。
名目上のこととはいえ、その小島時秀の命令によって三木直頼が木曾を打ち破ったというのだからなおのこと、小島家そして直頼に対する憎さは百倍増しになろうというものだ。
そして、そのような主人の鬱憤を知らぬ与十郎ではなく、彼は目に暗い光を宿しながら一段声を落として
「仰せの儀、尤も至極。それがしにひとつ策がございます」
と主人に耳打ちした。
向家の居城小鷹利と、在京の姉小路古川高綱、そして古川家中衆との間を、頻繁に人が往来するようになったのはこの日を境とする。
直頼はこの度の王滝村における手柄を引っ提げ、新左衛門尉直弘、新介直綱、末弟新九郎頼一らを伴い、小島城へと登城していた。
「他国の兇徒を打ち払うべし」
この命を下した姉小路嫡流小島時秀に戦勝を報告するためであった。
敵の大将首を挙げて意気揚々城内を行く三木四兄弟を前に、如何な国司家の家人といえども虚栄を張る能わず、人々は曾て「守護の又被官」と蔑んだ三木家の人々に自ずから道を譲る始末であった。家中がこうだったので、当代時秀も直頼を前に、上座に座して、ことさら鷹揚に構えて見せてはいるが、冷や汗と共ににじみ出る不安は覆い隠しようもない。
直頼は、自分の父親ほども年齢の違う時秀を哀れに思った。
この人物は、長者としての立場を得んがために、その手を一族の血で真っ赤に染め上げたにもかかわらず、三木家という重石があるために、いまでもこうやってびくつきながら形ばかり上座にあることを余儀なくされているのだ。古川二代をその手にかけた結果がこの表情かと思うと、そぞろ哀れを禁じ得なかったのである。
小島時秀は上座にあって
「此度の合戦、まことに大儀であった」
と直頼を賞したが、冷や汗を拭いもせず終始直頼と視線を合わせようともしなかった。




