盛者必衰の理(十一)
父祖伝来の領国、そして二人の息子を失い、姉小路古川という家名と、体ひとつで生き残った三木休安は、いったいどのような顔をして暮らしているものか。
或る日、近衛前久は自邸に保護したきり、久しく面会することもなくほったらかしにしていた休安との面会を、ふと思い立った。
金森長近に請われて助命を嘆願した以上、飛騨を逐われた休安を自邸に置くことは自分に課された義務だと前久は考えていたが、それは義務感以上の特別の感情を伴うものではなかった。
一応自邸に迎え入れるに際して
「いまより以後、自邸と思って心置きなく暮らすが良い」
という社交辞令を口にしたが、休安からは何の返事もなかった。
その表情はといえば、目は虚ろ、口は終始半開きで、なにを呟いているのかは知らないが、小刻みに顎を上下させていた。
近衛家の人々を殊更気味悪がらせたのは、時折休安が上げる悲鳴であった。じっと自分の両掌を見詰めていたかと思うと、突然なにかに怯えるような金切り声を上げるその声を、人々は気味悪がった。
話しかけても問答にならず、家人に身辺の世話を命じたあとは前久も近づくことがなくなっていった。
前久は久しぶりにその休安を訪ねようと思った。
我が身を振り返ってみれば、曾て織田信長が存命だったころ、前久はその力を借りて主上の権威を超越する寸前のところにいた。朝廷側の実働員として信長の創業に手を貸すことにより、その歓心を得て主上を超えようと企てていたのである。
信長が前久の企てに気付いていたかどうかは知らない。知らないが少なくとも前久と信長の関係は個人的には終生良好であった。信長による創業が成し遂げられておれば、前久が政界で重んじられることは疑いのないところであった。そしてそれは、本能寺に信長が斃れるその日まで、一点の曇りもない既定路線と考えられていた。
それがどうだ。
本能寺の変に際しては、光秀の謀反に加担したという嫌疑を受け、これが晴れたあとも、秀吉と家康の合戦(小牧・長久手の戦い)が始まると、家康寄りの立場を詰問され、奈良に出奔せざるを得なかった。このように天下人秀吉との関係は決して良好とはいえず、信長治世とは打って変わって中央政界から遠ざけられ、冷や飯を食っているのがいまの前久であった。
武家の力を借りて主上に超越しようとした曾ての野望も萎え果て、僅か十九で関白宣下を受けた新進気鋭の青年公卿もいまは五十を過ぎて老境にある。
自分よりももっと惨めな人間の姿をじっくり観察して、心ならずも冷遇の憂き目を見ている自分自身を慰めようとしたからといって、誰が老公卿の卑しい心根を責めることが出来るだろうか。




