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飛州三木家興亡録  作者: pip-erekiban
第三章 三木自綱の野望
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盛者必衰の理(十)

 飛騨の歴史に名を刻んできた一族を次代に残さないという、或いは人ならざる者の意志か。

 何の世迷い言かとお叱りを受けるかもしれない。内ヶ島家滅亡の件である。そのような非科学的な妄説に囚われかねないほど、その顛末には不条理が充満しているのである。

 飛騨における中世の、そしてこの血生臭い物語の終焉を象徴する出来事として、ここに一節を設けたい。

 

 秀吉が北国征伐の軍を起こしたとき、白川領主内ヶ島(うちがしま)氏理うじまさは佐々成政側としての旗幟を鮮明にしているが、殊更三木家と歩調を合わせたというわけではなかろう。三木家が支配していた国中くになかと一線を画していたとはいうものの、やはり白川郷といえども越中を領有する佐々成政の影響力とは無縁でいられなかったための、やむを得ない選択だったと思われる。

 一説によれば氏理は、佐々成政を扶けるべく越中に向けて出陣していたという。しかし越前と飛騨国中の境界を扼する白川の内ヶ島が、目の前に金森長近という強敵を置きながら、本拠地をほったらかしにして越中に出陣できたとは思えない。やはり内ヶ島家は、他の北陸諸勢力同様、本拠地での籠城しか選択肢はなかったのではなかろうか。

 案の定白川は真っ先に金森勢の攻撃対象とされ、向牧戸むかいまきど砦が五日間の攻防の末に陥落した経緯は前に述べたとおりである。

 圧倒的戦力を誇る金森長近相手に本拠地帰雲城から打って出てその後尾を打つこともままならず、内ヶ島氏理は城に籠もったまま終戦を迎えた。

 しかし氏理は降伏、赦免を願い出て赦されたのみならず旧領安堵を約束されるという、敗将とは思えない破格の厚遇を得た。白川郷という地域を治める特殊性が要因であろうか。

 余談ながらこの内ヶ島家に対する処断ひとつ取ってみても、降伏し、赦免さえ願い出ておれば、秀綱季綱兄弟はやはり死なずに済んだのではなかろうかと思われてならない。いくら惜しんでも死人が生き返ることはないが、惜しんでもなお惜しむべしとはこのことである。

 それは兎も角、時の天下人に叛いておきながら本領を安堵されたのだから内ヶ島一族の喜びようはひととおりではなかった。一族は総出を挙げて祝宴を開いた。


 宴もたけなわの天正十三年(一五八五)十一月二十九日亥の刻(午後九時から午後十一時ころ)、大地震が発生する。世にいう天正地震である。

 その被害範囲は越前、若狭、加賀、能登、越中、美濃、尾張、伊勢、山城、大和、近江そして飛騨といった国々に及んだ。大身たいしんでは越中木舟城主前田秀継や近江長浜城主山内一豊の六歳になる長女が城の倒壊に巻き込まれて圧死している。無名の民草ともなればその数限りなしという大惨事であった。

 なにぶん古記録に残る歴史地震であって、震源域を特定することは容易ではないが、これを飛騨庄川断層に求める見解もある。つまり白川そのものである。


 この地震により帰雲山では大規模な山体崩壊が発生した。この山体崩壊の痕跡は現在でもはっきり目視確認できる。崩壊痕上端の小規模な崩壊が、地震発生から四百年以上を経た令和のいまもなお続いており、ために樹木の群生が妨げられ、山肌が露出しているからである。

 崩壊した土砂の量は四五〇〇万立方メートルにもなると推定されている。この大量の土砂が庄川流域に雪崩れ込んできたのだからたまったものではない。土砂はそこにあった三百戸五百名の人々と共に、帰雲城を飲み込んでしまった。

 一族のうちで生き残ったのは氏理の弟経聞坊(きょうもんぼう)だけであった。幸運にも、偶然白川を離れていたために生き残ったものであった。

 内ヶ島家に血縁があり、頻繁に帰雲城にも出入りしただろう経聞坊であったが、その勝手知ったる経聞坊ですら地震後の白川に帰雲城の痕跡を見出すことが出来ないほどだったと伝わるから、被害程度の甚大だったことが自ずと想起されよう。


 経聞坊の伝承を裏付けるように、帰雲城のはっきりした所在地は現在に至るまで分かっておらず、内ヶ島旧領を南北に流れる庄川を挟んで東西いずれにあったか、という基礎的な位置関係すら判然としていない。

 現在、帰雲城址を示す慰霊の観音像は一応庄川西岸に建立されており、これを帰雲城の所在地と仮定すれば、山体崩壊で流出した帰雲山の土砂は庄川を越えて西岸の保木脇まで押し寄せたことになる。一方、庄川西岸、保木脇の更に西方には三方崩山さんぽうくずれやまという極めて示唆的な名を冠する山があり、帰雲城を飲み込んだ土砂はこの山が崩壊した際に発生したものではないかとも伝えられている。 

 いずれにしてもこの巨大地震により、幕府奉公衆内ヶ島家は歴史上から全く姿を消してしまったことだけは明白な事実である。

 

 飛騨の人々にとっては、自分たちの都合委細にかかわらず押し寄せてくる他国の軍隊は自然災害にほかならなかった。その意味では関白の軍も、これまで受けた他国の軍隊と本質的に変わりがないものであった。越中の敵対勢力を打倒するために、飛騨の都合にお構いなく押し寄せてきた自然災害の如き軍隊であった。

 これを凌いで本領安堵を勝ち取った内ヶ島家が、まさか本当に自然災害で滅ぶことになるなど思いもしなかったことだろう。地震によって力尽くで滅亡させられた感すらある。


 人ならざる者の、強い意志を感じる所以である。

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