盛者必衰の理(九)
「飛騨の諸氏は此度の一揆に際して我等に協力しませんでした。稲葉殿入部の前に討ち滅ぼすより他ございません」
金森長近は、一揆鎮圧後に訪れた大坂城で秀吉に謁見し、その顛末と共に報告した。
これを聞いた秀吉はただひと言
「許す」
と答えた。
飛騨征伐では互いに協力した飛騨の諸豪族と金森長近の決裂は、これで決定的となった。
さて、この一介の老人がどういったわけでこのような情報ネットワークを有していたものかは知らぬ、或いは累代深いつながりのあった本願寺勢力から情報の提供を受けていたのかもしれない。
河上富信は、先の一宮入道三沢の乱に際して金森に合力しなかった飛騨の諸豪族が、秀吉の勘気を蒙って討伐対象になったという情報を得た。この老人が立派なのは、どう考えても時政に勝ち目がないいくさであっても主筋を決して見棄てようとしなかったことで、あまつさえその情報を時政に知らせるや、慌てふためくばかりの時政に
「この期に及んでみっとものうござるぞ。早々に肚を固めて蹶起の御準備を」
と叱咤した点である。
富信の動きは急であった。彼は時政に蹶起を決意させると、間を置かず廣瀬兵庫頭宗直を口説き落として味方に付けた。彼等と関白秀吉によって討伐対象に指定されたうえは、もはや戦って旧領を勝ち取るか、討死するかしか道は残されていなかったのである。
斯くして天正十三年(一五八五)十月、江馬時政は蹶起した。
一揆の拡大は急速であった。
先の一宮入道三沢の一揆では益田郡の人々も合わせて蹶起したが、今回の叛乱では時政が高原の旧領主筋という縁故から荒城郡の人々が、そして廣瀬氏とのつながりから、大野郡の人々がそれぞれ一揆に加わった。小国飛騨に曾て見ない規模の大一揆が発生したのである。
これに対して金森家側は、美濃郡上郡遠藤家の協力を得て討伐に当たった。金森独力ではさすがに手に余る規模だったのだろう。激戦の末に金森勢は一揆を打倒した。
「飛騨編年史要」は、江馬左馬助時政の滅亡を八日町と記している。
八日町といえば、時政の祖父時盛を討った常陸守輝盛終焉の地でもあった。まだ幼かったころの時政が、怨敵と思い定めた輝盛滅亡の地で、自らもまた亡びることになるなど、一体誰が予想し得たであろうか。
この恐ろしい偶然は、私には輝盛を旧主と仰ぐ河上中務丞富信が、江馬家の終焉として演出したものに思われてならないのである。もし時政が勝利して高原を回復する目があるのならそれに賭けない富信でもなかっただろうが、敗北に終わったうえは、旧主の霊魂を慰めるべく時政の首を敢えて当地に捧げたのではないかとさえ思われるのである。
ただ、もしそうだったとしても、河上富信がそうまでして燃やした執念を描くには、私自身の人間力が不足しすぎている。
いまはただ、老臣の執念恐るべしと陳べるに止めておきたい。
金森家は三木家滅亡後に頻発した国人一揆鎮圧の功を認められた結果か、稲葉勘右衛門入部までのつなぎではなく正式に飛騨入封を認められ、江戸幕藩体制下に高山藩主として名を遺すことになる。
江馬家什宝の小鴉丸は、二代目藩主金森可重によって飛騨国分寺に奉納されたと伝えられている。
これが江馬小鴉丸の顛末を巡る一説である。




