盛者必衰の理(八)
就中江馬左馬助時政が金森長近に対して抱く不満は特別のものがあった。
というのは、かの江馬常陸守輝盛が八日町に滅びた際、牛丸又太郎親正がその佩いていた腰から分捕った小鴉の太刀が、未だに江馬家に返還されていなかったからである。江馬家を襲った幾多の戦乱の中で青葉の笛は失われ、いま時政の手元にある累代の什宝は、唯一一文字の薙刀だけという有様であった。
青葉の笛同様に小鴉丸も度重なる戦火の中で行方不明になった、というのであれば、長近相手に不満を募らせる時政でもなかったが、それは間違いなく長近の手中にあった。牛丸綱親、親正父子が小鷹利を捨てて越前大野に逐電した際、手土産として長近に献上された経緯を時政は知っていたのだ。
しかし
「小鴉の太刀はもともと当家累代の什宝ゆえに返却願いたい」
などと求めてみても、既に太刀は金森家に収公され家宝目録に登録されており、かかる物品を根拠なく時政に返還する理由を長近自身も持ってはいなかった。
これが、本領復帰が果たされない事情も相俟って、特別の不満を時政に抱かせることになる。
「一宮入道三沢蹶起」
この報せが時政の元に入ったのは、時政が際限のない不平不満に苛まれていた天正十三年(一五八五)閏八月のことであった。実に三木家滅亡の僅かひと月後のことである。
江馬家にとってはこの一揆は、高原復帰に向けて秀吉政権にアピールするチャンスであった。
飛騨一宮水無神社の神主を代々担ってきた一宮家は、かの和州公直頼舎弟新介直綱が養子に入って継承していた三木家の旧臣筋であった。助命のうえ本領を安堵された一宮入道三沢が蹶起する理由はほんらいはないはずで、これが蹶起したということは、少なくとも一宮入道個人の意思ではなく、旧三木系の人々に担ぎ出されたうえでの一揆と考えねばならなかった。
そのことを裏付けるように、三木家の本貫地だった益田郡の人々約五百人も蹶起して、一宮に合流すべく阿多野に雪崩れ込んだという。金森側は必死に防戦し、可重が一揆勢に狙撃されるほどの激戦に発展した。
「殿、早う出陣のご準備を」
時政にそう勧めるのは河上中務丞富信である。
この老臣は時政が金森側に立って出陣しようとしない様子に歯噛みした。
富信にとって三木家は、父重富や旧主江馬常陸守時貞、輝盛父子の仇敵であり、一宮入道三沢はその三木家の流れを汲む人間であった。この一揆は謂わば三木系の人々による反動であり、もしこういった人々が金森を駆逐してしまえば飛騨は再び三木家の手に落ちることを意味していた。累年三木家との戦いに身を投じてきた富信にとって、それは許すべからざる事態であった。
その富信にとってこの一宮入道の蹶起は、旧三木系の人々を根絶やしにし、しかも手柄を挙げて江馬家の高原復帰をより確実なものにするためのチャンスにほかならなかった。時政に対して頻りに出陣を促したのはそういった考えがあるからだった。
しかし時政は本領復帰と家宝返還が果たされていない不満から金森長近への協力を拒否し、日和見の態度に出た。
いやこれなど、一概に時政個人の不見識の為せる業とは出来ないだろう。
というのは廣瀬兵庫頭にしても、一宮入道三沢の乱鎮圧に積極的な態度を示さなかったからである。飛騨の旧国人領主のうちで金森に協力したのはひとり牛丸家だけだった。
一揆はこういった日和見の諸豪族の期待外れに終わった。
一宮入道三沢は益田郡の一揆勢が到着する前に討ち果たされ、鍋山城の麓で梟首された。またその娘は鍋山城下の五明村で磔刑に処された。
一揆は鎮圧されたが、鎮圧に協力せず日和見を決め込んだ飛騨諸豪族と金森家との間柄は急速に悪化した。彼等は金森長近の信用を完全に失ってしまった。
飛騨諸豪族が三木家討伐の際に上げた手柄は、これで台無しになった。




