盛者必衰の理(四)
――姉小路古川の名跡を後世に遺すため、三木休安への降伏勧告の労を執っていただきたい。
近衛前久は金森長近の使者が携えてきた書面を目にして、遠い昔のことを思い出していた。
自身が若くして関白の地位にあったころのことである。
当時、前嗣と称していた近衛前久は、天皇の権威を凌駕するという累年の野望を果たさんがために、狂奔の日々を送っていた。具体的には、武家のうちで見込みのある人物を猶子に迎え入れ、恣に官位を与え、その力を借りて天皇の権威を上回ろうと画策したのである。休安の父、良頼はそうやって猶子に迎え入れた一人であった。
書中に記された三木休安の名を目にして、その父良頼との関係、それに熱に浮かされたような野望の日々を不意に思い出した前久。
老境に達した今も、この人物には
「一旦猶子として迎えた以上は責任を全うする」
という侠気が残っていた。
さっそく前久は、休安に対して一書認めはじめた。それは
姉小路古川の名跡は古より連綿と続く家柄であり失うに惜しい。降伏赦免を願い出れば刑一等減じられるよう身どもより秀吉公に取りなすゆえ、降伏せよ。
という内容の書面であった。
この前久の直筆書面は、さっそく長近陣中から廣瀬高堂城内に射込まれた。
間を置かずして廣瀬高堂城の大手が開かれた。三木休安が抗戦を諦め、開城を決意した瞬間であった。
このたびの飛騨征伐で先陣を買って出た諸士は、曾て横暴を極めた専制君主三木休安が、その権勢を遙かに上回る関白秀吉の権力を前に屈して、一体どのような顔をして城から出てくるか、興味津々であった。
不測の事態に備えて要所要所に金森方の番兵が配置される大手からの道を、旗本に守られた休安が行く。
飛騨の諸士はその姿に驚かされた。
頬は痩けて目の下に隈を作り、なにを呟いているのかは知らぬ、終始口をもごもごと動かすその姿は、明らかに正気を失っている休安の姿であった。
当初は面食らった飛騨の人々だったが、やがて思い出したかのように、一人がこの一行に罵声を浴びせかけるとあとは早かった。あらゆるところから罵詈雑言が飛び交い、沿道は大変な喧噪に包まれた。
警固の金森勢は罵声を止めなかったが、休安一行に石礫が投げつけられると、その投擲者を素早く摘発して一刀のもとに斬って捨てたために、沿道は鎮まった。
本陣にて休安と対面した長近は、旧交を温めるように
「お久しうござる」
と声をかけたが、ひと目面会したときからまともな問答は望めぬものと理解した。
一応
「休安殿の名の許に、秀綱殿に降伏を勧告しますがよろしいですな」
と許可を求めたが、休安本人は虚脱状態にあって否とも応とも答えることがない。長近は無駄な出血を回避すべく、休安名義で降伏勧告を偽造した。依然松倉城に籠もって抗戦の構えを崩さない、秀綱季綱兄弟に降伏を勧めるためであった。




