盛者必衰の理(三)
金森勢は総勢三千、その内訳は、長近率いる本隊が二千、養子可重率いる別働隊が一千であった。
本隊は白川郷の向牧戸砦を五日ほどで陥落させた後、小鳥口から小鷹利城、小島城、古川蛤城を順次陥落させ、休安籠もる廣瀬高堂城を取り囲んでいた。
眼下に見たこともない大軍を見下ろす休安。
思えば休安自身、二千にも及ぶ軍勢を実際目にしたことはなかった。
これまで他国の侵略を受けたことがない飛騨ではなかったが、休安自らがその対処に当たった経験はなかった。
この未曾有の大軍を前にして休安の採り得る策は限られている。
佐々成政からの後詰を当てにして籠城戦を戦うか、或いは交戦を諦めて降伏するかのいずれかである。
聞けば佐々成政は越中国内の諸城を捨てて富山城に兵を集中させ、籠城の構えだという。とても後詰を望める状況にない。
では降伏か。
越中からの後詰が望めない状況下、休安にとって降伏は最も現実的な選択肢の一つであった。
そうと知りながら逡巡して決めかねていたのは、廣瀬高堂城を取り囲む上方勢の先陣に、廣瀬兵庫頭宗直や牛丸綱親、親正父子といった、休安自身が迫害してきた飛騨諸国人の姿を認めたからであった。
こういった人々に加え、よくよく見れば先陣のなかに、三星一文字の旗印が見える。
これを掲げる江馬常陸守輝盛は先年、八日町において討ち滅ぼしたはずであったが、どうやら生き残った江馬の一党が廣瀬高堂城包囲の金森勢に加わっているものらしい。
謂わば休安に対して恨み骨髄に徹する連中が休安を包囲していたのであり、降伏してなぶり殺しの憂き目に遭うことを休安は恐れた。
加えて金森勢に城を囲まれてからというもの、休安の耳には床の間の目地や板壁から亡き宣綱の声が聞こえてくるではないか。
宣綱は休安に対してしきりに降伏を勧めた。
休安は自らが処断した宣綱に反発する心持ちからも、降伏を申し出るということが出来ないでいた。
さて取り囲む金森勢はといえば、先陣を勤める飛騨諸国人は戦後の論功行賞を睨んで戦意満々、一方の金森長近は、もはや勝敗の明らかな戦役での犠牲者を、出来るだけ押さえねばならないという難問に直面していた。
彼我の戦力差から、強攻めに攻め寄せれば一両日で落ちる城にも見受けられるが、それでもかかる嶮岨に立地する城を攻めれば犠牲者は相当な数に上るだろう。
それでも戦後、間違いなく犠牲者の数に見合った知行が宛がわれるというのなら強攻めも辞さない覚悟の長近であったが、秀吉からは飛騨切り取り自由の内諾を得ているわけではない。戦役の主目的は飛騨制圧ではなく飽くまで富山城の孤立化であった。休安が自ら降るというのであればそれに越したことはない。
そもそも長近にとって、休安は知らぬ間柄ではなかった。天正十年(一五八二)に行われた甲州征伐の折には飛騨方面軍として出征しており、飛騨の人々に取っては甚だ迷惑な駐留ではあっただろうが、休安という個人に限ってみれば、そのころに長近と知己の間柄になっていたのである。全く知らない仲ではないということは、和平交渉を行う上で重要な要素であった。
長近は急遽洛中に使者を派遣した。休安に降伏を勧めるため、近衛前久を動かそうとしたのである。




