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飛州三木家興亡録  作者: pip-erekiban
第三章 三木自綱の野望
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吹き荒れる粛清の嵐(八)

 富信が言ったとおり、自綱はこのころ、織田信長の後継政権ともいえる羽柴筑前守秀吉と断交状態にあった。

 この自綱の方針を

「田舎侍だから時流を読み誤った」

 と評するのは簡単だが、本能寺の変後に織田家を見舞った事情はそんな単純なものではない。

 信長の横死後、次男信雄と三男信孝の間で争いがあったことは前述した。政治力を持たない幼年の三法師を差し置いて、二人の叔父が織田家の主導権を巡って争っていたのである。織田家中は二分され、同じ北陸方面軍でも柴田勝家は信孝派の重鎮、翻って佐々成政は信雄派の立場を取る混乱ぶりであった。天正十一年(一五八三)の賤ヶ岳の戦いでは、成政は柴田勝家に味方せず、勝家は秀吉に滅ぼされている。

 このため世上では、

「成政が裏切ったから勝家が滅ぼされたのだ」

 と噂されたという。同じ北陸方面軍というだけで両者は同心しているという誤解は、当時からあったわけだ。

 兎も角も後援者を失った信孝は切腹、これにより織田家は信雄によって後継されるものだと人々が認識したのは当然の話であった。自綱は越中に拠点を置く佐々成政の立場に従って、織田信雄派に属したものであろう。これまで織田家一辺倒の外交関係を構築していた自綱が、引き続き信雄との関係を重視したのは成り行き上当然のことだったのである。

 加えてこれまで縷々繰り返してきたとおり、越中国は飛騨とのつながりが極めて強い国であった。その越中を治める佐々成政が織田信雄派に属している以上、自綱が成政に反する立場を取りづらかったことはやむを得ないことであった。

 また、後の天下人羽柴秀吉は、この時点では未だ織田家の重臣という立場に過ぎないと世間では理解されていた。

 確かに山崎の戦いで明智光秀を、賤ヶ岳の戦いで柴田勝家を立て続けに打ち破り、他の織田家臣団から頭一つ抜きん出る存在感を放っていた秀吉ではあったが、それなど主君信雄あっての話である。秀吉が信雄を凌いで主家簒奪を企てていることなど、成政や自綱はおろか、全国の大小名にとっても思いもよらぬ話だったことだろう。知っていたのは秀吉の一部近臣だけだったと思われる。


 つまり自綱にとっては織田家との取次は佐々成政なのであって、この上更に羽柴秀吉に取次を依頼する理由がなかったのである。


 自綱が秀吉との連絡窓口を持たなかったのはこのためであって、決して秀吉を見下していたとか、時流を見誤ったためではない。

 そもそもこのころ、佐々成政は羽柴秀吉と協力して織田信雄政権を支える立場にあった。この体制が維持されている限り、飛騨三木家は盤石のはずであった。

 風向きが急速に変わるのは天正十二年(一五八四)のことである。

 秀吉は織田家の一家臣という立場を超えて次第に主家簒奪の野心をあらわにしはじめる。信雄の執政に掣肘を加えるようになり、両者の対立が急速に先鋭化しはじめるのである。

 この対立はいくさになった。いわゆる小牧・長久手の戦いである。

 秀吉は軍事的な勝利は逸したが外交戦で信雄・家康連合を圧倒し、信雄は秀吉との単独講和を強いられた。家康は信雄に請われて昇った梯子を外された形となり、勝っていた戦いを止めざるをえなくなった。成政が厳冬の北アルプス、立山山系を越えて家康や信雄に再挙を促したという「さらさら越え」はこのときの話だ。無論、両者ともこれに応じることはなかった。

 事ここに至っても成政は秀吉への臣従をなお拒み、ちか々《ぢか》上方勢(羽柴勢)による越中攻撃が実行に移されるというもっぱらの噂である。三木家が立場を変えるなら今が最後のチャンスであったが、より飛騨に近いのは残念ながら秀吉ではなく成政の方であった。厳然として動かないこの事実を無視して秀吉方に転じることが出来るほど情勢は甘くない。

 三木家の変節を知れば、成政は眼前に出現した敵の前線基地を叩き潰すべく、きっと飛騨討伐の軍を差し向けてくることだろう。

 秀吉に後詰を要請しても、これまでつながりがなかっただけあって無視されるのがオチだ。

 前述の事情から三木家は、秀吉を織田家臣団のうちの一人に過ぎないと認識しており、特に連絡窓口を設ける必要がないと理解していた。いまから秀吉との信頼関係を築くのは容易ではない。

 三木家はきっと、秀吉との対決を志向する成政の決意に引き摺られる形で望まぬいくさに巻き込まれることだろう。

 

「茹でガエル」という警句がある。カエルを熱湯に入れれば驚いて逃げ出し生存するが、冷水で飼育したまま水温を徐々に上げていった場合は、これに適応して逃げ出さず、気付かぬ間に茹でガエルになって死んでしまうという警句である。

 自綱が、織田家との関係さえ重視しておけば安泰だ、という認識に固執したことで、三木家はいつの間にか茹でガエルと同じ立場に立たされていたのである。


 富信は来るべき北国討伐で秀吉の側につき、三木家を滅ぼす尖兵として手柄を挙げた上で、高原に復帰しようと考えていた。


 この汚らしい身なりの老翁が、どのような情報源を持っているのかは知らぬ。しかし曾てはかの武田信玄の死を誰よりも早く報じただけあって、その情報力は侮れないものがあった。

 時政は言った。

「よかろう。焼け野原の高原で旗を揚げるより遥かに現実的な計画と思われる。して、我等上辺のいずれに奔れば良いか」

 これに対し富信は

「越前大野郡の金森五郎八殿に如かず」

 と答えた。

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